水平線に沈むポラリス

 彼は有名だった。
 暁の協会最高責任者である魔導師長アドニアの弟子、最年少魔導師。一級魔導師の男は噂の類には疎かったが、そんな男ですらクロウという少年の名は知っていた。本部ですれ違った時、頭が随分と低い位置にあって驚いたのを覚えている。

「ようこそ、ポラリス隊へ」

 すっかり背が伸びたあの時の少年が、優しげな笑みを湛えて歓迎してくれる。男が所属していた隊は幻影討伐の任務で隊長、副隊長共に殉職してしまい、大半の隊員も亡くなってしまったためクロウ率いるポラリス隊に編入する運びとなったのだった。

「以前よりお名前は存じていました。あなたの下に配置されたこと、光栄に思います。よろしくお願いいたします」

 彼の方が年下でも、階級は上だ。礼儀を尽くし、最後に敬礼する。

「――ええ、よろしくお願いします」

 ようこそ、と言った時と同じ顔で、平坦な声で、彼は微笑んでいた。これから先、男は幾度となく彼のこの表情を目にする事になる。

 彼は、魔導師としても隊長としても優秀な人だった。魔神の扱いに長け、状況によって使い分ける判断力に優れていた。視野も広く、全体を見ながら隊員達に簡潔かつ的確な指示を送った。引き際も心得ており、決して隊員達を無駄死にさせなかった。いくら隊長だとはいえ、死ぬ可能性の方が高い戦いの中で「殿は私が努めます!」と迷いなく言える者ばかりではないだろう。彼の勇敢さは、無事に生還する確かな強さは、命を預ける理由には申し分なかった。少なくとも、男にとっては。

「なんでですか……っ! まだ、間に合うはずです! あいつらは救援を待ってます!」
「霧が濃くなってきました。この霧の中では救援に向かった隊員諸共戻れなくなります」
「でもだからって、仲間を見殺しにしろっていうんですか!」
「撤退します。二度は言いません」

 ある任務でクロウに噛み付いたのは、数日前にポラリス隊に加入した年若い魔導師だった。分断されてしまった隊員を助けに行くべきだと主張する彼に、隊長はいっそ非情とも言えるまでの正論で返す。彼の判断は、隊長として極めて正しい。だが、不器用な人だと思った。あなたの気持ちもわかります、とたった一言寄り添ってやっていたなら、少年だってもう少し上手く気持ちの整理をつけられたのではないかと思う。冷たく突き放されるだけでは、実戦経験の少ない魔導師はどうしても納得出来なかったのだ。

「人でなし……ッ」
「すぐに慣れます。あなたも、先輩の魔導師にそう教わったでしょう?」

 曇りのない正しさは時として人を深く傷つけるのだと、まったく知らぬわけでもなかっただろうに。
なんとも言えない重たい空気を引きずったまま、見通しのいい場所まで逃げ切ったポラリス隊は野営の準備を始める。

「なんなんですか、あれ!」

 耳に入ってきた怒鳴り声に、男はぎょっとする。慌てて辺りを見渡したが、クロウの姿はない。周囲の警戒に当たったようだ。

「まあまあ、落ち着けよ。言い方に問題はあるが隊長の判断は間違ってない」
「だよなあ。俺も、あれは最良だったと思う」
「けど!」
「勿論お前の気持ちも分かるよ。隊長だってちゃんと分かってる」
「どうなんですかね、人当たり良さそうにしてるけど俺達のことなんて全然見てないじゃないですか。一度も目合ったことないんですよ」

 どきりとした。彼の言いたい内容に、男にも思い当たる出来事があったからだ。擁護していた隊員達も同様だったのか「あー……」と気まずそうに黙ってしまう。

 目が合った事がない、というのはやや語弊がある。露骨に逸らされているわけでもないのだ。ただ彼の瞳はいつもどこか遠くをぼんやりと見ていて、目の前の隊員を捉えているようで捉えてはいなかった。

「こんなことなら――隊がよかった」

 小さな呟きは、男には拾いきれなかった。しかし、続く会話でどこの隊なのか見当がつく。

「ああ、最年少で魔導師になった子が率いてるっていう」
「うちの隊長もだろ?」
「いや、隊長は違うんだと。私は違いますよ、記録を持つのは幼馴染の方ですってはっきり否定された」

 そうだったのか、と男は自分の認識を改める。話題に上っている人物の事は知っていたが、クロウと年頃も変わらなかったため、てっきり二人揃って最年少記録を持つのだと誤解していたのだ。

「ソロモン王の血筋だっていうしなー俺らとは格が違うよな。隊長も十分すげーと思うけど」
「あんな人を褒めないでください!」
「そりゃ難しいな。なあ、新米魔導師」

 空気がぴり、と張り詰める。それから、彼はひどく真剣な声で年若い魔導師を諭した。

「覚えておくといいよ。人の死に慣れることと、何も感じなくなることは同義じゃない」

 肌寒い夜だった。頬に触れるひんやりした風で目が覚めてしまった男は、寝ている隊員を起こさないようそっと天幕を抜け出す。火の番をしている二級魔導師に用を足してくる、と告げ、茂みに入っていった。この辺でいいかとズボンを下ろそうとした時、暗闇に溶ける金の髪が視界に入る。まさか天魔かと未だ覚醒していなかった頭は瞬時に切り替わり、腰に下げている魔導書に手を伸ばす。が、その必要はなかった。徐々に映し出される人影は、よく見慣れた人のものだったからだ。

 彼は泣いていた。

 涙を流していたわけでも、震えていたわけでもない。けれど夜空を見上げる後姿は、 悲愴感で包まれていた。どうしてこの人は戦い続ける事が出来たのだろう、と考えてしまったほどに。不意に、人の死に慣れることと何も感じなくなることは同義じゃないと言った魔導師の言葉が頭の中で繰り返される。

 クロウや彼の幼馴染のような突出した才能は与えられなかった男も、魔導師になって数年が経つだけの実力はあった。その間に失ってしまった同僚は、数え切れない。だから、あの言葉の意味するところも心情も推し量れる。同じ釜の飯を食った仲間を、共に笑いあった日々を失くしてしまった哀しみを忘れる事は出来ない。ただゆっくりと自分の中に沈めて、いつか消える日を待っているだけなのだ、と。そして本当は消える日など来ず、蓄積され続けている事も知っている。こんな夜更けに一人佇む青年は、きっとそれが他の人よりもずっと多いのだろう。ああなんて不器用な人なのかと思った。

 いつまでもここに居ては、近いうちに気付かれてしまう。男は物音を立てないように細心の注意を払って踵を返す。戻った先では新米魔導師を諭していた二人が起きていて、彼らと顔を見合わせて頷き合った。

 いずれは自分達も、星に消えてしまった彼らの後を追う事になるだろう。ここまで生きて来られたのだからと楽観視出来るほどの強さは、自分達にはない。その時、繊細な青年に残る傷が少しでも浅ければいいと、薄暗い夜空の下で願った。

夜空に消えたポラリス

 その人のことは、ずっと前から知ってた。有名人ってのもあるけど、それだけじゃない。実は同期だったりするんだな、これが。しがない一魔導師にしかすぎない俺のことを向こうは覚えてはいないんだろうけど、こっちは鮮明に覚えてるよ。彼の隊に配属されてからも、変わらず。

 俺のご先祖さまは天界大戦で神と戦った魔導師の一人、だったらしい。その血を受け継ぐ自分たちは魔力が高いんだと、うんと小さな頃から教えられて育った。兄も、父も、俺は会ったことのない祖父も、叔父も、魔導師になった身内はたぶん皆同じだったんだろう。彼らは他の選択肢には目もくれず当たり前のように魔導師になり、――――そして死んだ。

 こんなことを言ったら怒られるかもしれないけどさ、俺は魔導師になるつもりなんてこれっぽっちもなかった。いやだってお前、殉職率知ってる? 上の方の階級である中級魔導師ですら数ヶ月か数年で死ぬっていうんだぞ。無理。最初の任務で亡くなった3級魔導師とかは数え切れないほどいそうだ。俺みたいなのは誰の記憶にも残らずに虚しく死んでいくんだろうなって思ったらとてもじゃないけど気が進まなかった。小さな畑を耕して、ちょっといい雰囲気の幼馴染の女の子と家族になったりして、親子で一緒に眠って、そういうささやかな、この時代には贅沢な、穏やかな人生を歩いていけたら十分だと思っていた。思ってたんだけどなあ。

 俺とは年が離れていたせいか、いつだって優しかった自慢の兄。けっこう長く魔導師をやってたのを考えると、優秀な方だったんだろう。

 でも、訃報は突然だった。遺体はなく、母に渡されたのは所属と階級を示す紋章だけ。なのに母ちゃんはさ、温もりも何もなく手のひらに簡単に収まってしまうそれを必死に握り締めて、歯をぐっと食いしばって、届けてくれた魔導師に何度も何度も頭を下げたんだよ。ありがとうございます、って、帰してくれてありがとう、って。父さんは何も残らなかったから、尚更だったのかな。それで、お偉いさんの姿が見えなくなると泣き崩れた。情けない話だけど、母ちゃんを抱きしめる俺も鼻水流して泣いてた。この時になってはじめて俺は、魔導師にならないとだめだって思った。兄が、父が、叔父が、祖父が、彼らだけじゃない多くの魔導師が命掛けで繋いできた道を、なかったことにしちゃだめなんだって。俺にできることがあるのかなんてわからない、けどできることがあるかもしれない。なら、やってみようじゃないか。せめて、母ちゃんや幼馴染が笑って過ごせる未来を作れるように。

 と決めたはいいが、修行は地獄の日々だった。無理!! 死ぬ!! って本気で思ったのは一度や二度じゃない。なにせ魔導師になるための訓練を全く受けてなかったし。俺みたいな血筋のやつは小さい頃から学ぶのが普通だって父さんの知人でもある師匠が言ってた。父さんがさ、俺が望まないなら無理強いすることはないって周囲を説得してくれてたらしい。聞いた時泣いたよね。号泣するわ。なんとか頑張れたのは父さんのおかげだった。

 散々貶されつつもようやく及第点をもらい、試験を受けることになった時、母さんは笑顔で「行ってらっしゃい」って送り出してくれた。強いひとだった。あの時作ってもらった弁当以上に美味しいものを、俺は知らない。

 魔導師ってのは、世界を救う勇者じゃない。職業の一つだ。だから金に困って目指すやつもいるし、配給が貰えるって理由で目指すやつもいる。もちろん、俺と似たような境遇のやつも。理由なんてのは人それぞれで、それがわかっていたのに、講堂で最初にその子を見た時はびっくりした。だって、一際幼い男の子だったから。でも幼い外見に見合わず背筋はぴんと伸びていて、瞳には揺ぎない意志が宿っていた。

 ああ、こういう子が合格するんだなって直感で思った。空気っていうか、オーラが明らかに違ってたんだよな。で、こんな子がいるなら俺は落ちるなって思った。奇跡的に合格したけど。トップは当然、ぶっちぎりでクロウという名の少年が持っていった。格が違うってのはああいうのを言うんだろう。

 でも、なんだろうな。その子はなんか微妙そうな顔してた。おめでとう、って祝福された時は頬を紅潮させて喜んでたのに、ふとした空白に陰りを見せた。納得のいかないことでもあったんだろうか、あれだけの才能に恵まれながら。難しい年頃なのかね、と俺がのんびりと考えていたら、少年と同じくらいの年頃の子が駆け寄ってきて「クロウ!」と彼の名を呼んだ。

 親しい仲なんだろう、自分のことのように嬉しい!! って満面の笑みで少年の手を握って、「おめでとう!!」と繰り返しながらぶんぶんと振った。……包帯だらけのぼっろぼろの姿で。

「なんでここにいるんです! 大怪我して絶対安静中だって師匠に聞きましたよ!!」

 そりゃ怒るよな、俺でも怒るわ。しゅん、と肩を落とした相手に、「大体あなたはいつも」と説教が始まるのもしょうがない。でもその光景に、俺は衝撃を受けていた。……この子、ふっつーに子どもだったんだなあ。声を荒げ、表情がころころと変わる少年は、俺が最初に受けた印象とは大分異なってた。扱いづらそうな子だなとか思ってまじごめん。だってさ、口ではそう言いつつも目が輝いてたんだよ。おめでとう、って言葉が嬉しくてたまらないって目だった。怒られるのがわかっていただろうに伝えに来たのは、まあ、そういうことだったんだろうな。

 それから、俺は何度か本当に死にかけつつも魔導師として過酷な任務をこなす日々を送った。あの時の少年と、少年を祝っていた子のことは時々耳に入ってきた。どちらも優秀で、流石アドニア魔導師長の弟子だと。彼らの活躍を、無事を聞く度、俺も頑張ろうと励みにしていたことは誰にも話していない。深い話を出来るほど仲良くなったやつがみんないなくなったってのもある。いやまじで、殉職率高すぎ。覚悟の上だったとはいえ、やっぱりきつかった。部隊がほぼ壊滅してしまった時も。

 表面上の傷が癒えてきた頃、俺が配属されたのは結成したてのポラリス隊だった。あの時の少年が、優しげな笑みで迎え入れてくれる。目は、一度も合わなかった。

 クロウ隊長はそれはもう隊長の鑑といってもいい人だった。部下の能力をきっちり把握して最善の配置をし、決して無駄死にはさせず、撤退戦では「私が殿を努めます!」と俺たちが逃げ切るまでの時間を稼いでくれた。俺が前に所属していた隊の隊長はなんというか、うん、突っ込め!  タイプだったからな。鼓舞されてたのは確かだしあれが悪いってわけじゃないけど、命預けても後悔しないって本心で思えるのはクロウ隊長だ。でも、距離のある人だった。壁、と言い換えてもいいかもしれない。同じ任務をこなして、同じ飯を食べて、同じ場所で眠ったのに、ほんの一瞬でも彼が俺たちに心を預けてくれることはなかった。だから、衝突してしまったのも必然ではあったのだと思う。

 分断されてしまった仲間を助けに行くべきだと主張する新米魔導師、それは出来ないと一刀両断する隊長。隊長の方が正しいのはこの場の誰もがわかっていたし、多分、新米魔導師だって本当はわかってた。けど言い方がまずかった。こちらに歩み寄ってくれる気配が一切ない人に冷たく正論だけを投げつけられて、はいそうですねとすんなり納得できるほど相手は成熟していなかったのである。

「なんなんですか、あれ!」

 おい、声でけーぞー。フォローすべきかと野営の準備を止めて立ち上がると、俺よりも早く二人の魔導師が傍に寄っていた。うん、ここは任せよう。人数が増えるといじめっぽくなるしな。ただでさえ切迫してる時に余計拗らせるのは好ましくない。気にはなるから聞き耳を立てるけど。同じようなことしてる奴は他にもいて、俺は密かに笑った。なんだ、みんな隊長が好きなんじゃんって。

 良く出来たひとなんだけどなあ、もうちょいなんとかならないものかね。ってのが、隊員の共通認識だったのだと思う。後者の割合の方が大きかった隊員もいただろう。それが、新たに配属された副隊長によって見事に覆されることになるとは誰が想像しただろうか。

 副隊長になった人は、生死を彷徨う大怪我を負ったせいで少し記憶障害があると語った。もしかしたら迷惑をかけることもあるかもしれないから先に伝えておく、と。クロウ隊長とはまた違ったタイプだなと思った。違っていたからこそ、二人は上手くやれたのかもな。

 昔見た光景そのままに、クロウ隊長は副隊長の前では表情がよく変わった。楽しそうに笑ったり、慌てたり、青ざめたり。二人のことを知ってた俺ですらあれは誰だ……!? ってなったんだから、知らなかった隊員達はぽかんと間抜けな顔で二人を見てた。その気持ちは正直ものすごく分かる。でもさ、みんなこう、微笑ましそうにしてんの。あーよかった、って、心が通じ合った瞬間だったよ。

 なあ、隊長。あなたはきっと、俺たちの想いなんかちっとも知らなかったんだろう。知ったら切り捨てられなくなるもんな。あなたが本当はとても繊細で不器用な人なこと、気づいてたのは俺だけじゃなかったんですよ。だからかな、世界が終わるって時に思い出したのが隊長のことだったのは。

 貫かれた腹はぽっかりと穴を開け、塞ごうにも両腕は動かない。足は柱に押し潰され、おかしな方向に曲がっていた。助けを呼ぼうにも口から出るのは荒い呼吸ばかりで、何一つ言葉にならない。頬を濡らすのが自分の涙なのか血なのかそれさえもわからなかった。ああ、おれはしぬんだなあ。ふっと胸に落ちた現実に、止め処ない後悔が溢れ出る。

 母ちゃん、ごめんな。ごめん。俺知ってたんだよ、俺に魔導師になってほしくなかったこと。夜中にこっそり泣いてたこと、気づいてた。父さんを失って、兄さんも失って、俺まで、って思ったんだよな。なのに、俺の前ではおくびにも出さなかった。甘えてごめん。ただいまって言える強さが、俺にあったらよかったのに。たぶん父さんのように何も残してはあげられない、親不孝な息子でごめん。でもさ、父さんはよく頑張ったなって褒めてくれるんじゃないかって思うんだ。俺もう父さんの顔あんまり覚えてないけど、笑ってくれたらいいなあ。

 ああ、あいつに待つなって言えればよかった。俺なんか待ったって何にもならないよ。ごめんな、でも、あいしてたんだ。ずっと、ずっと、お前の髪が短くて男の子みたいだって近所のガキにからかわれてた頃から。初耳だろ?  お前ホウキ持って反撃してたよなあ。そんなんだから男女って言われたんだぞ。でもその後に悔しそうに泣いてた小さな背中は、俺にはか弱いおんなのこにしか見えなかった。どうか、俺以外の男と幸せになってくれ。……そうしたら泣くくせにって? 泣くよ、鼻水垂らして大泣きするよ。俺の涙腺の弱さなめんな。でも、心から祝福するから、だから、どうか。

 瞼が重い。段々と消えていく光の中で、脳裏に浮かんだのは暗闇でも眩い金の髪だった。彼は、生き残っただろうか。もし生き残っていたなら謝りたい。大勢の隊員を亡くした夜ですら泣けなかったあなたに俺の分の命も背負わせてしまうことを。叶うならば、感謝とともに。

 最期を迎えるとき、あなたの隊であったことは、俺の誇りでした。

ポラリスは煌めかない

 とっつきにくいと幼馴染であり自身の隊の隊長が陰で言われているのを聞いてしまった時、自分はどうするべきだっただろうか。

「どうしたのですか、人の顔をじろじろと見て」

 任務で深淵の森へ向かう道中、パンを片手に尋ねてくるクロウに偶然耳にした内容を告げるべきか迷い、あなたは結局なんでもないと返した。ごまかすように食べ慣れた固いパンを牛乳に浸し柔らかくしてからかじる。一応は納得してくれたのか、彼も食事を再開した。自分のことであなたが悩んでいるなどとまさか考えつきもしないのだろう。この男はそういうやつだ、とあなたは長い付き合いの中で把握している。

 中級魔導師、ポラリス隊隊長のクロウ。いかなる状況であっても取り乱したりはせず、最良の決断を下せる優秀な魔導師。ということを、副隊長として編成されてはじめて知った。いや、はじめてというと語弊があるのかもしれない。一緒に修行をしていた時代からクロウの実力は同年代と比べて抜きん出ていたし、与えられた大量の課題をこつこつこなす勤勉さもあった。あなたがどうやっても勝てなかった分野もある。だから知っていたはずなのだ、本当は。けれど、まだ甘さや幼さも残していた幼少期と魔導師になって数年経つ青年の姿は上手く重ならなかった。どちらもクロウには変わりないのに。

 自分以外の隊員が死亡し、自身も生死を彷徨う大怪我を負った後、魔導師長アドニアはあなたをポラリス隊の副隊長に組み込んだ。最初は、どうしてなのかわからなかった。不満があったわけではない。なんならクロウの隊に入れるのだと誇らしくもあった。だが同階級、同年代、加えて隊長になった経験を持つ人間を別の隊の副隊長にするのは何らかの思惑が働いているのは明らかだった。アドニアは薄く笑うだけで教えてはくれなかったが。しかしこうして共にいると、なんとなく見えてくるものもある。隊長が強く聡明で必ず生き残るという事実は、ひどく安心するものだ。それは他のポラリス隊の隊員だって皆一様に感じているのではないだろうか。

「今度は溜息までついて何かあったのですか」

 とっつきにくい、とっつきにくい……もそもそとパンを咀嚼しながらあなたは隊員の真意を探る。彼の顔のよさは多少の近寄りがたさもあるが、そういう話でもないのだろう。気になるのは、隊員と交流する気が一切なさそうなところか。クロウとあなたの周辺に不自然なスペースが空いているのがいい証拠だ。隊員たちは隊長を誘ったりするのに、クロウがばっさり断ってしまうのである。ああそういえば、彼は正月ですらいくら無礼講だと言われても失礼ですからと頑なに礼儀を欠かなかった。昔からとにかく真面目な男で、その真面目さ故に色々と抱え込んでいるのかもしれない。あなたを気遣ってくれる純粋な優しさを他の人間にも向けていれば、誤解も減るだろうに。

 しかしそうするには、この数年で互いに失ったものが多すぎたのだと思う。数え切れないほどの部下を、切磋琢磨した同期を、厳しくも優しかった先輩を弔い続けた。自分の両手で守れるものなんて少なくて、いくつもいくつも零れ落ちていく。今当たり前のように隣にいる男も、いつ失うかわからない。その恐怖とどう折り合いをつけるかは、人それぞれだ。繊細で危うい部分もあった彼なりの答えが、空いた距離なのだろう。あなたには理解できないことがあっても、間違いだとは思わない。けれど。

 ちらりとあなたは隊員たちの方を見る。目が合った隊員は嬉しそうに笑い、彼らの気持ちも間違いではないのだと難しい問題に頭を悩ませた。クロウの領域に入り込む気はしないし、隊員たちに説明するのも違う気がする。余計なお節介を焼く気はないとはいえ、放置するのも気が引けてしまう。まずは身近なところから始めてみよう、とあなたはクロウの肩を叩く。

「……頭でも打ちました?」

 失礼だと抗議し、次は隊員たちに話しかけてみようと残りのパンを飲み込んだ。

 パチパチと火が爆ぜる。火葬までに数日かかってしまったせいで気が狂いそうになるまでの死臭を漂わせていた何百人もの血が、肉が、髪の毛が焼けていく。すでに正気ではなかったのかもしれない。正常であれば、あなたもクロウも泣き叫んでいただろう。クロウは何も言わず、時間をかけて小さくなっていく炎の山を見つめている。クロウにも、炎魔法を使用してくれている魔神にもかける言葉は見つからなかった。

 あの時。巨大な死神が襲ってきた時。瀕死ながらも生き残っていた魔導師もいたことをあなたは、あなただけは知っている。そのことを間に合わなかったと己を責め続けているクロウに伝える気にはなれなかった。形にしたところで、遠くで響く呻き声や叫び声の中で意識を失ってしまった自分がただ一人生き残った現実が変わることはない。何も変わらないのだ。
 
 あなたは右手を固く握り締め、空を見上げる。天へ昇ってゆく仲間たちは、どんな想いで最期を迎えたのだろうか。

 風向きが変わり、一枚の紋章が風に乗ってあなたとクロウの元に辿り着く。地面に落ちたそれを拾い上げたクロウの顔色が、瞬く間に変わった。すぐに理解したあなたも血の気が引く。端が黒くなってしまってはいたが、見慣れた、今日まで何度も目にしてきたその紋章を見間違えるわけがない。――。彼が呟いたのは、あなたと目が合うと嬉しそうに笑ったポラリス隊の隊員の名だった。ややお調子者の面はあったが面倒見のいい男性で、隊に馴染めないクロウのことを気にかけてくれていた隊員のひとりだ。あなたが冗談でクロウの顔の話を振ったら「すっげーわかります!」と大げさなまでに頷いて場を和ませてくれたものだった。

 クロウはぎゅっと眉を寄せて紋章を額に当て、祈りを捧げてから炎の中に返す。ごうごうと燃え盛る炎が、余さず焼き尽くしていく。咄嗟に隊員の姿を探してしまったが、人の形を成しているモノはもうそこにはなかった。

 燃える、燃える、燃える。つい数日前まで共に戦っていた同志たちが、尊敬していた師が、物言わぬ灰となって燃え尽きる。届かなかった後悔を、苦痛を、絶望を、あなたとクロウの胸に突き刺して。……紋章を拾ったのが自分であったなら、あなたは彼と同じ行動を取ることができただろうか。震える手と足を押さえ、迷いを捨て去ることが本当にできただろうか?

 クロウ。あなたは意を決して彼の名を呼ぶ。振り返った彼の顔は炎の色で染まり、先ほどの顔色の悪さが嘘のようだった。

「……大丈夫ですよ」

 それが強がりにしか過ぎないことを、あなたもクロウも痛いほどにわかっている。虚勢が必要な時もあるのだ。あなたはあの時のようにクロウの肩を叩く。幼馴染として、魔導師として、――――ポラリス隊の副隊長として。すべての命を彼ひとりに背負わせたりはしない。

 アドニアがどこまで予見していたのかはわからない。だが、世界が終わってしまった時に二人だったのは、間違いなく救いだった。

…………

駆けつけた時、そこは地獄と化していた。
むせ返る血の臭い、崩れ落ちた城、見渡す限りの屍、屍、屍。
冷静さなどかなぐり捨て、仲間たちの名を叫ぶ。
返答はない。
生きている人間はいないのか。
何かを踏んだと思ったら、見慣れた腕章をつけた誰かの腕だった。
心の中で謝罪し、生存者を探して奥へと進む。
こんな風にしか歩けなかった私を、あなた達は恨むだろうか。
息をしている副隊長を見つけた時の心からの安堵も、踏みつけてしまった命も、私は決して忘れないと誓う。
――中級導師の手記より

ポラリスが泣いた夜