「どうした、殴らないのか?」
魔王たちの加護を得て「ゲーティア・プライム」を撃破した後、自分の塔に戻ったあなたはアスタロトに尋ねられる。戦闘前の発言を持ち出してきた彼女に、あなたはなんと返せばいいのか迷った。アスタロトは「いつでもいいぞ」とでも言いたげに腕を組んでこちらが行動を起こすのを待っている。
殴ってやりたい、そう思った気持ちに嘘はない。あなたは記憶を失った状態でこの世界に召喚された。右も左も分からぬまま、一体何を信じればいいのかも決められない中で魔神を使役して今日まで戦い続けたのだ。底知れぬ不安感で眠りたいのに眠れない夜もあった。たった一つ身に着けていた指輪を何度も撫でては、朝が来るのをひたすらに待ったのは一度や二度ではない。なのに、指輪の本来の持ち主――アスタロトやナータンが「あいつ」と呼ぶ人物が、そもそもの元凶だと知ってしまったあなたは心中穏やかではいられなかった。
いや、元凶というには正しくはないのかもしれない。全てを知っていて黙っていたアスタロトも、ナータンも、……クラウラも、始まりという意味ではみんな違う。彼らはみな、この世界のルールの犠牲者なのである。候補者争い、否、奴隷候補同士の争いの。しかし誰も悪くない、と言えるほどあなたは寛容にはなれなかった。
魔神に自分の居た世界を侵略され、別の世界に召喚され、アスタロトによって記憶を故意に奪われた。家族の名前も、顔も、自分が誰であったのかさえあなたは思い出せない。しかも他者から見た自分は「あいつ」と同じ姿なのだとナータンは言った。魂の根底があいつそのものなのだ、と。魔神が従えられている理由でもある、とまで付け加えて。胸に込み上げてきた苛立ちを「殴ってやりたい」と表現するのが、あなたの精一杯だった。要は、誰でもよかったのだ。「あいつ」と同様の魂を持つものならば、誰でも。そこにあなたの意思は必要ない。ふざけた話だと思う。ナータンにあなたは被害者だと言われたが、違いないとあなた自身も感じている。
「納得がいかない、という顔をするくらいならば下らぬ躊躇いなど捨ててしまえ」
そうだ、あなたは納得がいっていない。たぶん、ずっと。おそらくは、召喚されたときから。
「お前にはその権利がある。ただし先ほども言った通り殴り返さない保証はないがな」
悪びれる様子もないアスタロトの強気な態度。少し前のあなたであれば額面通り受け取っていただろう。だが今のあなたは、彼女が本当は優しい人なのを知っている。殴り返してくることはない、と確信していた。
覚悟を決め、あなたはアスタロトに近づく。ずいぶんと時間がかかったな、と皮肉げに笑った彼女の白い頬に手を伸ばし――ぺちん、と軽く叩いた。当のアスタロトは訳がわからないといった風に固まり、呆然と立ち尽くしている。普段見る機会もない彼女の間抜けな――可愛らしい表情を目にしたあなたは、溜飲が下がる思いだった。散々巻き込まれたのだ、この程度は許してもらいたい。
「……妾の頬を叩いておきながら楽しそうにするとは、いい度胸だな」
そう言う彼女も、どこかすっきりとした顔をしていた。こういう形でしか償えなかったのかもしれないと、あなたは今更ながらに思い当たる。
記憶を失う前の自分は、どうしていただろうか。やっぱり殴っていたかもしれないし、誰も悪くないと口にしたのかもしれない。今のあなたに、確かめる術はなかった。