血を流さなくていい、戦わなくていい平和なこの世界に生まれ落ちたとき、なにかが欠けていた。
代々続く会社を経営する厳格な父、父を支えるおっとりとした母、近所でも評判になるほど利発な兄。人から見れば何不自由ない家庭で、少年は育った。
実際のところも、家族仲は悪くなかった。父も母も優秀な兄と弟を比べることはしなかったし、兄が大人顔負けの知識を得ることも弟が子どもらしい失敗をしながら成長することもどちらも個性だと喜んだ。おかげで兄へのコンプレックスが募ったり卑屈になることもなく――皆無というわけではなかったが――少年は兄が好きだった。
自分にはない視点で物事を語る兄の姿は憧れるには十分で、構って欲しくて、よく後ろをついて回ったものだ。兄もそんな弟を邪険にはできなかったのだろう、「これはなあに?」「何してるの?」「ねえねえおにいちゃん」と質問を繰り返す弟に困った風にしながらも説明を試みてくれた。
ただ、残念ながら兄は賢すぎた。弟が劣っていたわけではないのだが、頭の回転の速さが違いすぎていたのだ。当然、年齢差もある。いくら優秀といえども兄もまだ幼かったので、更に幼い弟が理解できる言葉に直せなかった。また彼は生来回りくどい話し方をする男だったために、言葉を重ねれば重ねるほど要点を掴むのが困難を極めたのである。結果、「こいつに話しても時間の無駄だ」と諦める兄と「彼の言うことはわかりづらい」と首を傾げ続ける弟ができあがってしまったのであった。二人の関係性は、大学に入った兄が家を出てからも改善されていない。
「また迷っていますの? 癖はありますが、良い方ですわよ。あなたも意地を張らずに連絡をすればいいのに」
そろそろ兄貴の誕生日なんだよな。ホームルーム前の雑談でぽつりと漏らした少年に、隣の席の少女はやや呆れながらアドバイスをくれる。
「またって言うほどじゃねえだろ」
「去年も一昨年もメッセージを送れなかったのはどこのどなたでしたかしら」
うぐっ、と喉を詰まらせた少年を見た少女は毎朝綺麗に整えられた桃色の髪をかき上げてころころと笑う。
「二人きりの兄弟ですもの、誕生日くらい、素直にお祝いしたってバチはあたりませんわ」
花の女子高生らしからぬ口調で話す彼女は、それでいて少女らしい「兄弟は仲良くするもの」と信じ切った価値観で諭す。そう簡単な話じゃねえよ、と捻くれた回答をしようものなら、あら簡単ですわよと返ってくるのは目に見えていた。
とはいえ、長い付き合いだからこそ交わせるやり取りでもある。いわゆる良家のお嬢様の彼女とはパーティーなどで顔を会わせる機会も多く、同い年だった少年とも馬が合った。彼女は兄とも親しくしており、彼が一人暮らしをして以降会話もしていない少年とは違って今も交流があるらしい。彼が勉強する分野に興味があるのだそうだ。彼女は根気よく彼の話を聞いた上でわからない箇所はわからないと言い、あなたは仕方ないですわね、と受け入れるので、兄としても話しやすかったのだろう。
昔から二人を知る彼女が大丈夫だと言うのだから、助言通りにしても悪い方向には転がらないに違いない。わかっていて実行しないのは、年頃の兄弟の距離感なんてそんなもんだろ、とも思っているためだ。高校生にもなって兄にべったりは恥ずかしいというちっぽけなプライドだった。
「ところで、転校生が来るそうですわね。ご存知ですか?」
引き際の良い彼女は、話題をがらりと変える。
「いや、俺も知らねえよ。性別はどっちだ?」
「さあ、そこまでは。でもわたくし、朝の星座占いで一位でしたのよ。運命的な出会いをするんだそうです。ですからきっと、良い出会いになりますわ」
このおじょーさんはそういう話が好きだよなあ。少年が投げやり気味に考えていると、教室のドアが開く。教師に続いて入って来たのは、至って真面目そうな――少年の心の中でだけに留めるなら「人畜無害そうな」人物だった。とてもではないが、少女の夢見る運命的な相手ではなさそうだ。なのに。
二人揃って、その人から目を逸らせないでいた。
ああ、やっとだ。やっと会えた。胸が歓喜で震える。
「よろしくお願いします」
普段なら聞き逃してしまう平坦な声も、一字一句忘れないよう集中して拾っていく。黒板に書かれた名前に、憶えはない。会った記憶もない。けれど「知っている」と本能が告げていた。
兄との仲は悪くない。緊急時に「助けてほしい」と縋ったならどんな頼みでも聞いてくれると疑わない程度には、兄だって弟を気にかけてくれているとわかっている。両親も、不出来な弟にも優秀な兄と変わりない愛情を注いでくれた。不満はない。でも。生まれ落ちたときから、なにかが欠けていた。ここは自分の居場所ではない、と迷子の子どもみたいに当てもなく帰る場所を探していた。兄と距離が空いてしまったのは、彼の性格ではなくその違和感が原因と言ってもいい。今にして思えば、兄も自分と似た感情を抱えていたのではないか。
彼が弟を見るとき、「違う」と目が訴えていた。そう、少女と同じ――――
カチリ。目が合った。
「お嬢」
お嬢様だから、お嬢。いつしか呼ぶのを止めてしまった子どもの頃のあだ名を、小さく口にする。すると少女はふわりと遠い昔に見た柔らかな顔で笑った。
頭がふわふわとして、何故だかひどく気分がいい。今なら、兄に電話でも何でもできそうな気がする。熱烈なラブレターだって送れそうだ。この際、数年分のプレゼントも渡してしまおう。一緒に選んでほしい、と誘ったら少女は付き合ってくれるだろうか。転校生も、巻き込んでしまいたい。ああ、わかりやすく浮かれている。
本気で手紙をつけるやつがあるか! 字が汚ねえよ! あら嫌ですわ、本当に読みづらいですわね。お嬢まで! でも写真に撮るんでしょうあなたは。ぶはっブラコンだ! なんて他愛ない話をして笑って。そんな日々を、あなたたちと過ごしたいと思ったんだ。