崩壊した本部の隅に咲く真っ赤な花を指して、不吉だ、と救援に来てくれた部隊の魔導師が呟いた。墓地でよく見るその花は、毒もあるのだという。
土に埋められた死体が動物に食い荒らされないようにわざと彼岸花を植えるのだと、どこか誇らしげに語っていた人はここにはいない。ああ、あの人の墓にも咲いていた。
あなたは再度、赤い花を見る。帰る人もいないのに咲き誇るその赤を、ひどく美しいと思った。
また、と言った彼を残酷な人だと思った。叶わないかもしれないと、知っているだろうに。だが、彼ほどの人物が無責任に口にしたとも考えにくい。信じているのだろうか、リガルが生きて再びこの地に戻ってくることを。答えを聞いてみたい気もしたが、尋ねはしなかった。希望のままで終われるように。
幼い頃から家族のように近くにいた人だった。この人がいなければ自分は俯いたままで、仲間たちに何一つ報いる事もなく朽ち果てるだけだっただろう。隣を見れば片割れが戦っている、それがどれほど心強い事か。なんだってできると、そう信じられるのだ。
――ねえ師匠。どこまでがあなたの掌の上ですか?
春の桜。夏の向日葵。秋の紅葉。冬の雪。どれも美しいと言った。神に見捨てられたこんな世界でも愛おしいのだと。変わってる。態度に出てしまっていたのか頬を膨らませて「もっとよく見て」と注意された。
空は薄暗いし毎日どこかで人が死ぬ。ああでも、あなたの隣で見た景色は鮮やかに色づいていた。
夥しい屍の中で唯一生き残っていた幼馴染は、何度も何度も嫌になるほど見てきた虚ろな眼をしていた。経験上、立ち上がれる人間は少ない事も知っている。あなたを更に追い詰めるかもしれない。だが、こんな風に死んでいっていい人ではない。私の手を取って、前を見て。そうしたら私も再び歩けるから。
不幸を比べるなと先輩の魔導師が言っていた。失ったものを数える夜があっても比較をする必要はないのだと。間に合わなかった私と何もできなかったあなた。どちらが辛いかなんて考える意味はない。
そんな事をしても私達の胸に空いた穴は塞がりはしないのだと、炎の熱さが証明している。
強く勇敢で、才に恵まれた子ども。しかし傲慢さはなく、性根の優しいふたりだった。繊細すぎるきらいもあり、他の魔導師にはその調子で大丈夫なのかと異論を唱えられた事もあったが、全て撥ね除けた。
あの頃のまま成長した弟子の顔が絶望に染まっていく。なあ、俺は二度と会いたくはなかったよ。
本部が壊滅したことを各支部に知らせなくてはとペンを取る。第一、第二支部と書き終え、手が止まってしまう。あの男はどうでもいいが支部の人間に罪はないと己に言い聞かせ、再び書き出す。懇切丁寧に送ってやったというのに、返ってきたのはたった一言。握り潰さなかった自分を褒めてやりたかった。
春の匂いがするたびに思い出す。桜の木の下でひとり泣いていた名前も知らないあの人は、どこかで笑っていてくれているだろうか。
魔導書に挟まっていた花弁に寄り添うようにして新しい一枚がはらりと落ち、風が二枚とも連れていく。ありがとう、あなた達が繋いでくれた春が今年もきたよ。
アドニアを疑いもしない彼らは、明るい未来を真っ直ぐに信じていた。長く魔導師でいればいるほど失われていくものだ。眩しい。……自分にも、あんな頃があっただろうか。久しぶりに会ったクロウに話を振ったら「あったかもしれませんね……」と疲れきった目で返された。ごめん、こっちが悪かった。
強くなるための行程は地道なものだ。傍から見れば代わり映えのしない毎日を繰り返し、与えられた知識にしか過ぎなかったものを自分の中に吸収していく。そうやって育てられたからか、魔神達を強化するのは実のところ嫌いではなかった。「お前まじで変わってんな……」彼の隣でクロウまで頷く。失礼な。
日付が変わる。「誕生日おめでとう」祝ったら彼は驚いた顔をしていた。入隊手続きの際の書類で知っている、あなたが種明かしをすれば「あー」と納得がいったように呟いて、「ありがとな」と年相応の笑みをくれた。
贈る花も豪華なケーキもないけれど、来年もまたきみの笑顔が見たいと願うよ。
副隊長の一言を皮切りにして「今日が誕生日なのですか?」「みずくせえなあ、おめでとう!」と俺の周りにわらわら人が集まり始める。なんだよ、お前ら暇人かよ。戦闘続きでそれどころじゃないくせに。おい、頭撫でんな! 背中叩いたの誰だクソいてえ!
でも、こんな誕生日も悪くないのかもな。
彼の誕生日を終ぞ知らなかった。同い年だ、とはしゃいでいた時に聞いてやればよかったのだろうか。今更祝うつもりもないが、砕け散った彼の欠片を一つでも多く持っておくべきだった。そう感じるのは、律儀にも副隊長が覚えていてくれたからだ。手始めに隊長と副隊長に質問してみようか。
ランプを片手に、そろりと階段を上る。鞄にはパン、毛布、重たい星座図鑑。隣には共犯者。胸を踊らせて、扉を開けた。
星が降る。
人々の願いを雫にして。
「わあ……」
凄い、手が届きそう、凄い! 一頻りはしゃぎ、座り込む。図鑑と夜空を交互に指差しながら過ごした、大人には内緒のちいさな冒険。
「今思い出すときっかけは師匠だった……」
「鍵も開いていましたね」
「子どもは大人に見守られてたってことだね」
「そういうことなんでしょう」
「何がだよ?」
「んー、内緒。リガルが大人になったら教えてあげよう」
「はあ?」
完全に手遅れだった。動き出せない自分たちの横を通り過ぎた彼の絶叫が耳をつんざく。何度も何度も、仲間の名を叫ぶ。何度も。傍で見ているだけで胸が抉られるほどに。――生存者を探さなくては。血塗れの瓦礫を踏んだ時、彼が一際大きな声で誰かの名を呼んだ。途切れていた光が灯っていく。彼の、希望。
後一日早ければ、何かできただろうか。もっと力があれば、途方もない悲しみに暮れる背中にかける言葉もあっただろうか。悔やんでも時間は巻き戻らない。
あちこちに散らばった肉塊を寄せ集め、魔神が炎を放つ。顔も名前も知らない、弔う花もない彼らへの別れの挨拶はどうしても思いつかなかった。
またか。供もつけず湿原を駆け抜けてきた彼を見て、隊員たちは揃って溜息をつく。相変わらず困った人だ。支部では大変な騒ぎになっているだろう。「支部長」窘めようとした声は、存外弾んでしまった。沈んでいた隊員たちの顔にも活気が戻る。魔導師らしからぬ大剣を今日ほど頼もしく感じた事はない。
我らが支部長は頗る口が悪い。気になった相手にはちょっかいをかける癖もあり、あの可愛らしい顔でよくやるものだと思う。だが、戦闘時において彼ほど心強い人はいない。彼の背中は、隊員たちの道導だった。
置き去りにされたままの昏い影も、彼ならば吹き飛ばしてくれるだろう。激しくも優しい風で。
「私の可愛い隊員たち」我らが支部長は戦闘前に必ずそう口にする。この言葉を聞くのが好きだ。彼女にとって自分たちの命は決して軽くはない、ならばここで死ぬつもりはないと奮い立つから。私の――間に合わなかった後悔を引きずっていた隊員たちの顔に、光が射す。さあ、戦闘開始だ。
未知の天魔を前にして興奮を隠せない様子の彼に、また始まったと内心引いてしまう。この状況で普段通り振舞えるとは、流石支部長である。もし少しでも違っていたら、憐れむ顔が傷になって残ってしまった隊員たちの心が晴れる事はなかったのかもしれない。感謝を込めて厳重に包んだ心臓を鞄に仕舞った。
きらりと輝く左手を掲げて、溢れんばかりの笑顔を見せてくれた日の事を、ずっと覚えている。私たちの希望でもあったの。失ってしまった時、二人分の指輪を握りしめていたあなたごと抱きしめてあげられてたらよかった。僅かでもいい、あなたの未練になりたかった。救われなかった魂はどこへゆくのかな。
双剣を携えた幻影が仲間たちを切り刻んでいく。これ以上は無理だと判断し、一か八かの勝負に出る。しかし魔神を召喚するよりも早く腕を落とされ、血に塗れた魔導書は踏み潰された。
あーくっそ、新米魔導師に偉そうな事言っといて情けねえ。あいつ逃げ切れてればいいんだが。――強く生きろよ、少年。
青水晶を拾った彼を見て少しでも安心した自分を殴りたい。良くも悪くもクロウはクロウだった。真面目で繊細で、どこか危うさが漂う人。とっくの昔にわかっていたはずだ。ならどうして、何も声をかけてやれなかったのか。
歯車が噛み合わなくなっていく。行き着く先は、本当に同じだろうか。
あなたはちっとも変わらない。いつだって他人の事ばかり優先して、自分が傷つこうが構いはしないのだ。とっくの昔にわかっていたはずだった。だからその分大事にしようと決めていたのに、あなたはいつも私の手をすり抜けていく。
始まりが一緒だったふたりは、終わる時も共にあるのだろうか。
変わらないものがある。変わっていくものがある。少年にしてみればどちらも似たようなものにしか思えないけれど、彼らにしか通じない悩みがあるのだろう。
でもやっぱ似た者同士だろ。独りごちる。誰かが同意してくれれば気も晴れそうなのだが。空は今日もどんよりと暗い。
声が聞こえる。わたしたちを喚ぶ声が。……おっかしいなあ、何でそんなに震えてるの。生まれ変わったらまた一緒に旅がしたいって言ったのに。え、レヴィにしか話してない? じゃあひみつのままでもいいかな、ちょっと恥ずかしいし。
あなたが繋いでくれた光の道を、わたしは行くよ。笑って待っていて。
声が聞こえる。私たちを喚ぶ声が。よかった、覚えていてくれたのね。形こそ違えてしまったけれど、あの日の約束を果たしてくれたわ。ねえ、だから笑って。ビヒモスだって待っていてくれているのでしょう? 泣き顔なんて見せたら私を喚ぶ方が遅かったのねって文句を言ってあげるんだから。ふふ、冗談よ。
物語が動き出す。あなたの血と覚悟を持って。
止まっていた時計の針が進む。あなたの笑顔を犠牲にして。
私はあなたを、待っていたのです。
「スカート短すぎませんか」
「え標準だけど」
「そうですか……?」
「魔導師は別に動き回らないしね。もっと短くする? って聞かれたけど断った」
「当たり前です!」
「当たり前なんだ。面倒だっただけなんだけど」
「女性が脚を見せるものではありません」
「クロウのそれはどこ目線なの?」
死なない仲間はいない。わかりきっていたことだ。だがお前が死ぬ時はもっと何かを遺すとばかり思っていた。呆気なく逝っちまうとはなあ。
お前に奢らせるつもりだった高い酒を、今日一人で飲む。別れの挨拶は、それで充分だろう。俺らの間に湿っぽいものは必要ねえからな。
時期は過ぎていた。こんなものは自己満足にしか過ぎない。
すべての命を救えると思うな、それは傲慢ですらある――師の教えが反芻する。自分達では彼を助けられなかった。あなたがもたらしてくれた光を閉ざさないように先へ進んでいく。いつか再び会う日まで。
「ありがとう、僕を忘れないでいてくれて」
魔神と女神
沈む沈む、蒼に沈む。
上手くいったようだった。待つしか手段が残されていなかった上に、鍵まで人間に託す羽目になるとはなんと滑稽な事か。滑稽、滑稽の大滑稽だ。かつての己が見れば嘲笑しているに違いない。――人を食らう化物になるよりはマシだなんて、やはり馬鹿馬鹿しいと一人笑いたくなった。
こんなはずではなかった。そう思った天使、いや堕天使は何人いただろうか。けれど誰一人として口には出さなかった。最後の矜持だったのかもしれないし、死んでいった仲間への罪悪感だったのかもしれない。
――こんなはずではなかった。五百年も抱き続ける事になるなんて、あの日の誰が想像しただろう。
グレお姉さんに任せて。何度も聞いた台詞だった。このくらい大丈夫、とあなたが返せば、彼女は寂しげに微笑む。
「ヒトは脆いんだから」
説得力のある一言に、傷ついた左腕を差し出す。すると彼女は顔を綻ばせ、回復魔法を唱えた。
「次もお姉さんに任せてね」
あなたが頷くと、彼女は笑った。
お姉さんはね、ずっと待ってたの。この世界を変えてくれる誰かを、私の世界を終わらせてくれるその人を。多分後ちょっとなのよねって言ったらアスタロトにずいぶんと長いなって鼻で笑われちゃうかしら。でも今回はお姉さん自信があるのよ。
その時、私は私ではなくなっているかもしれないけれど、ね。
終わりを待っている。
途方もなく永い時間、先の見えない暗闇の中で未来へと続く光を待っている。そこに自分は行けないと知りながら、ただ願う。遠い日の希望を捨て切れなかった愚かな姿を笑いたければ笑え。馬鹿だなと笑って、過去を断ち切ってくれ。
願わくばそれが、いつかのおまえであればいい。
敗北を予感していた天使は妾以外にもいた。だが、確信していたのは妾のみであったのかもしれぬ。仲間を信じていなかったわけでも、愛していなかったわけでもない。ただ「知っていた」それだけだ。
薄情だとお前は言うかもしれないな。否定はせぬよ。未来のために今を生きるお前たちを裏切るのだから。
わたしのスートっちが主の魔導書に記載された。早速腕を組み、髪を撫でても反応はない。いつもなら嫌そうな顔をしてくれるのに。魂のない抜け殻なのだと主が言う。つまんないなー。首も簡単にへし折れちゃうってことでしょ? やっぱりつまんない。
早く起きてよ、スートっち。本気の斬り合いをしよう。
最初に目覚めたのは私だった。愛した地上は変わり果て、共に戦った仲間の多くは鬼籍に入っていた。私達を導いた、王も。王亡き後、心の拠り所が必要だったのでしょう。人々は私を女神と崇め、私もまた彼らの期待に応えるべく毅然と振る舞った。
どうしてかしら、あの頃よりも愛おしいと思うのは。
辿るかもしれない道の一つを視ている。ごとりと落ちる首も、噴き出る血を浴びた仲間の叫び声も、人の手によって変えられた後は夢の狭間に消えていく。誰の記憶にも残らずに。
私には全て紛れもない現実です。サマエルは一度も告げた事がない。未来は変えられるものだから。
「予知は成功しました」
イベント
「その、私にはくれないのですか?」
「えっいるの」
「いらないと思ったのですか」
「いやうん、俺が悪かった。ちょっと待て、摘んでくるから」
「気をつけてくださいね」
「その気遣い別のとこに向けてくれたほうが嬉しいぞ!!」
なんとか終わった、とあなたは一息つく。贈った花の総数、2580本。我ながら本当によくやったと思う。――異界からすれば、迷惑にもほどがあっただろう。けれど。上級魔導師の腕章をつけた魔導師は少し照れくさそうに花を受け取って、優しく微笑んでくれる素敵な女性だったことをあなたは知っていた。
現実から切り離された、冷たい手だった。天魔となった魂はどこへゆくのだろうか。神のもとか、それとも……。あなたは頭を振る。誰も答えは持っていないのだ。脳裏に浮かぶ女性の姿を振り払うようにして、門をくぐる。
隊員の墓を作った、やさしいひと。夢の中で最愛の人に出会えていますように。
「リガルのチョコレートだ…!! 絶対おいしい!!」
「な、何でそんなに感動してんだよ」
「リガルが作ったのならアレンジ加えたりとかしてない普通に美味しいやつってわかる」
「アレンジ……? お前大丈夫なのかよ……」
「ちょっと胃がきりきりしてる。でも食べる!」
「食わなくていいから!!」
男性
「魔神達と同じノリだったのが失敗だった」
「つまり?」
「野郎と二人きりはむさ苦しい」
「同感です」
女性
「クロウにはもう渡したのか?」
「はい」
「夜更けに呼び出すのは感心せんな。警戒心を持て」
「相手クロウですよ」
「男はみんな狼だ」
「師匠も?」
「俺は別だ」
「はあ」
「何の夢を見ていたのですか?」
「魔法学園☆ゴエクロ……」
「はっ?」
「おい頭でも打ったんじゃねえの」
「師匠が眼鏡してた……始業式? から32分とか言ってた……」
「胃が痛くなってきました」
「なんかもっと楽しい夢だったはずなのに辛い」
今日は七夕なんだよ。古い文献で読んだというあなたは、お手製の短冊を差し出してきた。こんなものに願いを書いたところで誰が叶えてくれるのか、と思ったけれど、あなたは心躍らせていたから黙っていた。……ああ、あの時なんと書いたのだったのか。どちらの願いも叶っていない事だけは分かっている。
思い出を残したかった。彼がこういったものを好まないのは知っていたけれど、最後には折れてくれることに甘えて巻き込んだ。何書いたのって聞いても教えてくれなかったね。お前達では届かないだろうって、師匠が短冊つけてくれたんだったなあ。風で揺れていた君の願いを、本当は今でも覚えているんだ。
「七夕?」海で思う存分遊び、休憩していたリガルに話を振る。彼の反応は鈍かったが、食いついてきた隊員もいた。流れで紙を切っただけの短冊に願いを書く。湿気てよれよれのそれらを近くの木に吊るし、次こそは休みを! と口々に叫んだ。何か違う気もするが、たまにはこんな日があってもいいのだろう。
「リガル、頼みがある」
「なんだよ」
「掴まってていい?」
「お前まさか」
「まさかなんだな」
「先に!! 言えよ!!」
「いやあそこは男のプライドが」
「今暴露してたら一緒だろ!!」
「泳ぐ機会とかなかったし」
「教えてやるから大人しく言うこと聞けよ」
「リガルせんせーありがとー」
「水着に着替えてきたアスタロト可愛いとか言ったら俺フルフルに殺されんのかな」
「試してみたらいかかです? 同意してくれるかもしれませんよ」
「やだよ命は惜しいよ。じゃあフルフルを褒めるのは」
「どうぞご自由に」
「……エルに癒しをありがとうって伝えてくるわ」
幸福な夢だった。女神も天使も、失ってしまった人々も皆口を揃えて祝福の言葉を述べている。何かが違っていたら、こんな結末もありえたのだろうか。主様もこちらに、とエルが名を呼ぶ。クロウもリガルもあなたを待っていた。ありがとう、遠ざかっていく世界に手を振る。
「おはようございます、主様」