――――誰かに喚ばれている。どこか懐かしい、けれどそれとも違う頼りない声で「わたし」を喚んでいる。ある時は名前を変え、姿さえ変える「私」はあなたの目にどう映るだろうか。すぐ傍にある答えが待ち遠しい。
ああでも、後少しだけ。この夢の中で聞いていたかった。
お前を守る壁などいらない。逃げる事は許さない―少女の声が響く。
始めたのはお前だ、と彼女は言った。禁忌に手を出したのだからその言い分は正しい。けれど本当の始まりはどこだっただろう。どこまで遡れば納得してくれたのだろうか。
それよりも次の攻撃を防がなくてはとあなたは彼女と向き合った。
自分を可哀想だと思った事はなかった。両親はいつも私達は幸せねと笑っていたし、深い話をする友人もいなかったからだ。狭い世界で生きる子供にとって、与えられたものが全て。でも。絶望の果てに辿り着いた希望の中であの頃を振り返ると、苦々しい気持ちになる。わたしはきっと、可哀想な子供だった。
私であって、私ではない人。彼女の事は、人伝に聞く事しか出来ない。それだけでも悲惨な人生だったのは充分すぎるほど伝わった。でも。私は彼女を可哀想だとは言いたくない。私が辿るかもしれなかったせいだろうか。叶うなら哀れむのではなく、ひとりぼっちの女の子を抱きしめてあげたかった。
「ほわいとでー、っすか?」
首を傾げる彼女にあなたは頷いてみせる。差し出したのは、最新の刻印石を付与したリングだ。いつもありがとう、の意味も込めて渡したかったのだが、どうやら通じなかったらしい。説明するとぱあっと顔を輝かせ、精霊と一緒に踊り始めた。
「ずーっと大事にしますね!」
「愛しき王のためにとは、大胆大胆の超大胆な名前をつけたものじゃのう」
「愛する主のためにに変わるらしーぞ!」
「うるさいなーもぉー。どうせみんなアシストで使ったんでしょ」
「使わされた、と言え」
「あら? 満更でもなさそうだったけど」
「スートっちの愛を独り占めなんてずるいよね。チッ」
「へえ、謝るのか? あんたが? あたしに?」
頭を下げるアスタロトに、ベリアルと呼ばれた少女は疑いの眼差しを向ける。
「許せとは言わない。だが、魔王の力無くして成功しない。あやつはまだ未熟だからな」
「……今回きりだ。次に同じ事をしたら焼き尽くす」
「それで構わない。「次」はないがな」
死ね! 見知らぬ男が、ナイフを片手に叫ぶ。
明確な殺意を向けられるのは生まれて初めてだった。平凡な日々を送っていたはずの自分が一体何をしたというのだ。こんな薄暗い世界で、誰にも惜しまれず死んでいくのか。薄れゆく意識の中で届いた少女の声だけが最後の救いだった。また失敗――次こそ――
数えきれないほどの自分が、因果に巻き込まれたのだという。気分のいい話ではなかった。会った事もない他人だとしても、彼らは確かに生きていたのだ。自分と、いや、自分達と同じように。
全てが終わったら墓を作ろう。可能性のひとつとしてではなく、あなたがこの世界に存在した証として。
避けたのは私だったけれど、本当は少し会ってみたかった。貴方が今感じている幸せは当たり前の事じゃないって、伝えたかったから。貴方に繋ぐ手はないかもしれない、だからその分お傍にいて、決して離れないで。なんて、「今」の貴方ならきっと分かっているんでしょうね。ちょっとだけ羨ましいな。
寂しくはないのです。あなたが残してくれた温もりが、優しさが、たくさんたくさんあるから。あなたと過ごした幸福の日々が色褪せることはない。全部、ちゃんと覚えてる。大事なことを間違わなければ私は生きていけるのです。 私の大好きな王様。心はいつもあなたと共に。
「アレ」と私は違う。同じであるはずがない。仕える王もおらず、世界を破壊する侵略者とは。王は力強く頷いて、はっきりと私の名を呼んだ。私はもう一度私として生まれる。アーゲンティ、あなたに王たる叡智を与え導く魔神。私があなたを守りましょう。
誰よりも女王を敬愛していたあなた。一途に彼女を想うあなたは私には眩しく、誇らしくもあった。最初の魔神があなたでよかったと心から思っていた。いつまでも、変わらずに。幾度となく切り刻まれ、その度に再生し、憎悪を募らせていった不死鳥を私の鎌が引き裂く。わたしがころした、やさしいあなた。
致命傷を受けた魔神は跡形も残さず消滅する。花を咲かせた笑顔も、聴く者を魅了した歌声も、青空の下燃えるように煌めいていた翼も、存在していた証でさえ霧散していく。私達が従っていた女王のために。次に出逢う時、あなたではないあなたは覚えているかしら。不死鳥フェニックス、私の罪と愛の象徴。
もう一度だけ、あの人に会いたかった。嫌になるほど繰り返してやっと辿り着いたのよって教えたくて。でも、変ね。目を閉じると浮かぶのはルルが泣いてる姿なのよ。ジェイクったら慌てるばかりで何の役にも立たないんだもの。あなたが慰めてあげてくれる? お願いよ、私は先に行って待ってるから。
永遠に続けばいい。情けない弱音を、聞いていたはずだ。しかし迎えにきた相手は無言で手を差し出してくる。信じている、言葉はなくとも逸らされない目が雄弁に語っていた。答えてやらねばならないだろう。だがな、妾をエスコートするには100年早い。女心を学んでおけ。その時がきたら考えてやろう。
はじめ、そこには何もなかった。温もりも何も。いつからか無機質な塔には笑い声が溢れ、訪れてくれる友もできた。今は賞金首をどう倒すかの話から脱線し、マルデロの得意料理は何かで盛り上がっている。参加したそうなアスタロトも招くと、腹の減る話になっていく。キッチンからはいい匂いがしていた。
「歌を聴かせてほしい?そっかあ、覚えていてくれたんだね」
彼女を召喚した時に交わした、ひとつの約束。今ならば、と持ちかけると快諾してくれた。塔界に響く歌声につられ、いくつもの音が混ざり合っていく。最後には立派な演奏会になっていた。私は、彼女たちの王として相応しく在れただろうか?
願わくば、この歌声がいつまでも誰かの心に残りますように――
とぷん、真っ暗な闇の中に意識が沈んでいく。こわくはなかった。揺りかごに眠る赤子にそうっと話しかけるような、この世のすべての愛と幸福を詰め込んだやさしい声が身を包んでいたから。
「――いつまでも、共にありたかった」
最初で最後の愛しいわがまま。きみの声を、いつまでも聴いていたかった。
共に戦い背中を押してくれた彼女は、母のようでもあった。いたのかどうかも思い出せない姉のようでもあった。「殊勝だな」とからかわれる姿はそれでいて妹にも見えた。あなたに捧げる言葉はそのどれでもなく、或いはすべて。
アスタロト、誇り高き魔王。いつかまた会おう。あなたの望みが叶うまで。
人間が立ち入っていい領域ではない、と言った。魂が廻り、芽吹いたとしても、彼女と会うことは二度と叶わないのだろう。思えば、最初に出会ったのは彼女だった。仕組まれていたとはいえ、閉じられた世界を広げてくれた人だった。あの頃と同じように親しみを込めて名を呼ぶ。共に生きた候補者の名を。
紙切れ、と冷淡な声が響く。正しいんだから嫌になっちゃうわね。私はレメゲトンの切れ端の切れ端、風で飛んでいっちゃう薄さだもの。嘘、この体は風くらいじゃびくともしないかな。そのためにヒトの姿を取ったんだしね。名前も考えて――そうよ、私には名前があるの。紙切れなんて呼ばないでほしいわ。
「髪切ろうか?」
「いらない」
「そっか。目が悪くなりそうだったから」
「睡眠も必要としない体でか?」
「なんとなくね。そういうの、大事だと思うよ。人が人であるために」
「……ひと?わたしが?」
「そうだよ」
「じゃあ、切って」
「いいの?」
「うん」
私を人だと言った、あなたなら。
「熱いから気をつけてね」礼を言ってマグカップを受け取る。息を吹きかけて口に含めば、とろりとしたミルクの甘みとほのかに酒の香りがした。さて、記憶を失う前の自分は成人していただろうか。「美味しいでしょう?」この世界と彼女の笑顔の前では些細なことかと素直に頷く。今夜はよく眠れそうだ。