厚い雲にぽっかりと空いた穴の先から、太陽の明るい光が差し込む。人類にとってそれは数百年ぶりの光景だった。母の如き温かさに触れたくて手を伸ばすと、無慈悲な刃が愚かな幻想を切り裂く。これから起こることを、あなたは知っている。夢の始まりはいつも同じだ。
多くの魔導師が、古城の講堂で女神の登場を今か今かと待ちわびている。
その日、先の見えない戦いを続けてきた魔導師たちにとって希望に満ちた日になるはずだった。長く不在だった最後の女神が目覚めたのだ、式典を欠席しようなんて考えたのはリガルくらいのものではないだろうか。副隊長という立場上出席が義務づけられているのもあるが、クロウほどではなくとも女神を信仰してきたあなたには端からない発想である。だが、彼らしいなとも思った。隣にいるクロウは不機嫌そうな顔をしていたが。後になって思えば、あれが彼の分岐点だったのだろう。生きるか、死ぬかの。そしてそれは、訪れるタイミングこそ違えどあなたとクロウにもあった。
女神の入場に合わせて鳴らされた歓喜の喇叭の音がぶれ、禍々しいものへと変わっていく。審判の、喇叭に。景色がぐにゃりと歪み、崩れ落ちた古城が赤く染まる。尚も喇叭は止まない。自分には、世界を変えた音。たくさんの人間の、世界を終えた音。耳を塞いでも、大声でかき消そうとしても、頭の奥にこびり付いて離れない。
聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない。見たくない、何も、何も。
――――一人、生き残ったくせに?
誰かの声が、どこか遠くで響く。自分の隊の魔導師だったのかもしれないし、会話したこともない魔導師だったのかもしれない。考える余裕はなかった。彼を皮切りにして、次から次へと様々な声が上がる。
「俺たちだって生きたかった。どうして、お前だけ……!」
「こんなところで死にたくなかった。俺が何をしたっていうんだ」
「いたい、イタイ、痛い、おかあさん、おかあさん……」
聞いているだけで胸が張り裂けそうな、痛く苦しい心の叫び。これは、彼らの無念だ。既に灰になってしまった人々の。
ふっと闇が世界を包み、明かりのない真っ暗な中に取り残される。ぞっと背筋が冷え、あなたは声がする方角を目指して懸命に走った。例え自分を罵倒するものであってもいい、ここに一人でいる方がずっと怖かった。足がもつれながらも走って、走って、遠ざかっていく声を探してまた走る。行かないで、どうか、行かないで。祈りが通じたのか、一筋の光が徐々に人影を映し出す。
師匠。呼んだ声が、音になったのかは自分でもわからなかった。顔が黒く塗り潰されているアドニアは、こちらを見てゆっくりと口を開く。
『 』
――……ッ!!
飛び起きたあなたの視界に真っ先に入ってきたのは、悲痛そうにあなたを見るクロウの姿だった。伸ばされている手から考えて、彼が起こしてくれたらしい。
「すみません、ひどく魘されていたので……」
何の夢を見たんです、と聞かれなかったのが今のあなたには有難かった。恐らく彼にはお見通しだったのだろうけれど。礼を言い、額に右手を当て大きく息を吐き出す。びっしょりと濡れた手のひらが、気持ち悪い。
「顔を洗ってきなさい。その顔では部下の前に立てませんよ」
頷き、枕元に置いていた魔導書を手に取る。隊長としての命令だったのは彼の優しさだったのだろう。気心の知れた幼馴染として接してもらっていたら、あなたは大丈夫だと虚勢を張っていたはずだ。
普段よりも深くフードを被り、頼りない足取りで小川に向かう。エルは何も言わない。その気遣いに甘え、あなたは重たい足を引きずって無言で歩いた。ようやく辿り着き、力なく座り込む。誰かに見られる心配もないとフードを外し、水面を覗き込んだ。ゆらゆらと安定しない自分の顔は頬がこけ、目には生気がなく、なるほどクロウに指摘されたわけだと納得する。今日まで生きてきた中で、最も情けない顔だった。
「どれほどの劣勢であろうと、上に立つ人間が揺れてはならない。常に堂々としていろ」
自分の隊を持つことになった時、師であるアドニアに諭された言葉。彼は少しも裏切らず最期まで立派な魔導師長であり続けた。女神たちも、弱音の一つも零さずに自分たち魔導師を励ましてくれた。自分も、ああなれるだろうか。悪夢に魘され、引きずってばかりいる自分が。本部が壊滅してしまい、支部に助けを求めようとしている道中、一番階級が高いのは中級魔導師のクロウとあなただ。クロウが隊長として振舞ったように、あなたにも成さねばならないことがある。
両手で冷たい水を掬って勢いよく顔にかけ、頬を伝う涙も一緒に洗い流す。この程度ですぐに前を向けるとは思っていない。でもそれでも、じっとしてはいられなかった。
夢の中で、アドニアはなんと言ったのだろうか。きっと、知る日は永遠に来ない。
誰もいなくなった夜、空に浮かぶ月だけがあなたを見ていた。