「……すみません」
クロウが謝罪すると少女は俯いて、ぎゅっとスカートの裾を握る。その姿はいじらしく、涙を堪えているのはクロウにもわかったものの、他にかける言葉が見当たらない。これが自分の幼馴染であれば相手を傷つけずやんわりと断ることもできるのだろうが、残念ながらクロウにそんなスキルはなかった。項垂れた小さな頭から目を逸らさないのが、せめてもの誠意だった。
「いえ、あの……わたしこそごめんなさい。聞いてくださって、ありがとうございました……!」
震える声で絞り切り、ぱたぱたと走り去っていく。残されたクロウは右手で髪をかき上げ、大きく息を吐いた。
「もってもてだね、色男」
この場でするのはおかしい声が聞こえ、反射的に殴りたくなる。
「覗き見とは趣味が悪いですよ」
「ごめんごめん。わざとじゃないよ」
柱の影から姿を現した幼馴染の男は普段通りフードを深く被ってはいたが、その下では眉を下げているのだろうなと想像がついた。まさか出て行くわけにもいかず、引き返すにも都合が悪かったのだろう。クロウも、彼に悪気があったとは端から思っていない。そもそも宿舎に続く渡り廊下なんて人通りがある場所で話していたのはクロウたちの方だ。だが、やはりいい気はしなかった。
「可愛い子だったね。どこかで見た気がするんだけど」
「支援部隊の方だそうですよ」
「ああ、納得した。確か最近入った子だっけ。うちの隊員が盛り上がってたわ、そういえば。けどクロウ狙いだったかー」
からかう風な言い方に、クロウは眉を顰める。
「で、そんな可愛い子に告白されてクロウくんはちょっとくらい揺れたりしなかったの?」
「答える義理はありませんね」
「うっわ冷た。ほんとこの手の話題は乗ってこないね。俺未だにクロウの好み知らないし」
「知る必要もないのでは?」
「ごめんって。今度仕事代わるからさ」
「男に二言はないですか」
「ないない。我らが女神様に誓ってもいいよ」
女神の名まで出されてしまっては、いつまでも機嫌を損ねてはいられない。大体、クロウだってこんな事が言いたかったわけではないのだ。
「お久しぶりですね、myName id=’0’。怪我もないようで安心しました」
こうして会うのは数ヶ月ぶりだろうか。互いに昇進してからは更に忙しくなり、顔を合わす機会も減っていた。時折、師匠から彼の近況を耳にしてはいたけれども。
「クロウも元気そうでよかったよ。もってもてだったし?」
「話を戻すなら私は失礼します」
「いや真面目な話さ、クロウっていい血筋の坊ちゃんでしょうよ。血残せって家からせっつかれてたりしないの」
「あなたがそれを言いますか?」
天界大戦で人々を導いた稀代の魔導師、ソロモン王の末裔が。言外に含ませたクロウに、彼はそれはもう盛大な溜息をついてひどく深刻そうに頭を抱えた。
「最近さあ、お偉いさんに会うと期待を込めた目で見られるのどうしたらいい……?」
「すみません、冗談のつもりだったのですが」
「クロウの冗談はわっかりにくいんだよ! 俺だってね、可愛い女の子は好きだよ? 頑張ってくださいとか声かけられたら当然ときめくしうっかり惚れそうになるよ? リュボフさんやダリアさんに会えた日には一日中浮かれてるよ? でもさあ、それとこれとは別問題じゃん!?」
部下の前では決して見せないだろう素の口調が彼の切実さを物語っている。流石にクロウも同情を禁じ得なかった。自分たちの年齢で所帯を持つのは、事情を考慮すれば非現実的な話ではない。しかしあくまでありえなくはない、というだけで、心が追いついてくるわけでもなかった。
「わかってはいるんだよ、ご先祖さまを見習って血を繋いでいかなきゃならないことは。でも、ひよっこのどこに誰かの人生を背負える自信が生まれるよ。相手にも失礼だろ」
結局のところ、クロウも彼と同じ気持ちだった。生きて、ぼろぼろになりながらもなんとか生きて、目の前のことを一つ一つこなすだけで精一杯な日々を送る自分たちが、他人と共に歩んでいけるとは思えない。子孫を残すためならば仕方がないと割り切れるほど、クロウも彼も不誠実にはなれなかった。例えそれが、甘えだと切り捨てられる幼い感情であったとしても。
「あー俺もうエルと結婚したい。しあわせにする」
「エルが聞いたら泣いて喜びそうな台詞ですね。上層部は別の意味で泣くのでしょうが」
「まじで? 喜んでくれるかな? 指輪の代わりに何用意しよう?」
「論点がずれていますよ。時間は大丈夫なのですか?」
「報告終わって自室に戻るとこだったから平気平気。夜にはまた出るけど」
「それは平気とは言いません。少しでも長く寝るべきです」
「はいはい。クロウもいい夢みろよ、顔色悪いぞー」
痛い部分を指摘されてしまい、咄嗟に顔を逸らす。があからさますぎたらしく、楽しそうに笑われてしまった。失敗した、と内心悔やむクロウを見た彼は不意に空気を変える。幼馴染同士の気安い時間を終え、魔導師としての日常に引き戻された瞬間だった。
「あの子に申し訳ないって思うなら、ちゃんと寝て明日も生きろよ。たぶんそれが一番だろうから」
なのに内容はクロウを気遣うもので、彼は変わらないなと緊張の糸が解けそうになる。優しい男なのだ、わざわざ口に出して褒めたりはしないが。その優しさ故に彼は魔導師として生き、そして死んでゆくのだろう。
「約束、忘れないでくださいね」
「おー、任せろ」