去年の彼女の誕生日に、木軸簪を贈った。透かした花の中央に青い石が嵌めこまれている、可愛らしいデザインだった。髪飾りとしては特別高価なものではなくても、貴族向けに作られているそれはお洒落のためだけに買うのは躊躇われる値段で、本心では憧れていた彼女も壊してしまうといけないからと何かと理由をつけて手に取らずにいた事をクロウは知っていた。誰が見ても女性へのプレゼントなため店主の激励を受けてなんとか購入し、偶然にも彼女の誕生日当日に渡せた時の彼女の顔は一生忘れられない。

 覚えているのは、クロウのみになってしまったけれど。

 彼女が率いていた隊が壊滅してしまい、彼女自身も最近まで昏睡状態だったとクロウが知ったのは、長期任務を完了して本部に戻ってきた時だった。魔導師長に帰還を告げ、報告書を提出し、そろそろ話も終盤に差し掛かったという頃「あいつの事だが」とアドニアが突然切り出したのだ。
 自分がなんと答えたのか、クロウ自身にも定かではない。そうですか、と、些か不自然なまでに冷静に返した気もする。ここで動揺を態度に出すほど、クロウが魔導師として積み重ねてきた時間は短くはなかった。取り乱すようでは隊長は務まらない。

 彼女はまだ医務室に世話になっており、戦い方を忘れてしまっているせいで再び隊を組むのは困難だと判断しポラリス隊の副隊長として編成するのだという。確かに、前回の任務で亡くなった副隊長の席は空いたままだ。隊員達にも伝達しなくてはと思考を巡らせ、事後処理も残っていると物事の順序を整理する。話は終わった事を確認してから、敬礼して魔導師長室を後にした。扉を閉める際に普段のクロウであれば絶対にしない大きな音を立ててしまったのは、多分、どうしようもない事だった。アドニアが痛々しそうな視線を向けていた事に気付く余裕すらなかった。

 いつの間にか降り出していた雨音が窓を叩く。

 クロウが成すべき事を終えると外は真っ暗で、本来ならば怪我人を訪ねる時間帯ではなかったが、クロウは構わず医務室への道のりを歩いていた。はやく、はやく、と足取りは徐々に早くなる。階段を飛ばして上るなど、子供の遊びでさえした経験がない。後少しだ。後五段上って、角を右に曲がれば目的に着く。篭城戦には適した複雑な造りをしている城が、今日ばかりは恨めしい。あと、すこし、ああ雨音がうるさい。
 息を切らしながらもようやく辿り着き、最後に掻き集めた良心でゆっくりと扉を開ける。消灯済みの部屋を夜目を利かせて探すと、彼女は一番手前のベッドで眠っていた。闇に浮かぶ真新しい包帯にぞっと背筋が冷え、無意識のうちに呼吸を確かめる。規則的に上下する胸元が、彼女が生きている証だった。

「んん……」

 しまった、起こしたようだ。申し訳ない事をしたと罪悪感を覚えながらも、早く目を開けてくれないだろうかと矛盾した感情が湧き上がる。都合のいい夢ではないのだと、その目に自分を映して、声を聞かせて欲しい。どうかもう一度、名前を呼んで欲しい。

「あれ、クロウ……?」

 起き上がろうとした彼女を、そのままでいいと制止する。

「ありがと。ごめんね、クロウも忙しいのに心配かけちゃったんだよね」
「そうですよ。私の心臓が止まるかと思いました」

 素直な気持ちを吐露しただけなのに、何故か彼女は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。視界が悪いせいで見間違えたのだろうか。彼女以外の怪我人は見当たらないので、壁にかかっている燭台に火をつける。照らされた彼女は、やはり青白かった。

「……顔色が悪いですね」

 椅子に腰かけ、彼女が声を張り上げなくてもいい距離まで顔を近付けたら、今度は気のせいではなく露骨に逸らされた。どうしてなのか分からず彼女の視線の先を追うと、サイドテーブルの上に置かれた髪飾りが見えた。

「あれは……」
「ああうん、血が落ちなかったし花びらが欠けちゃったんだけど、なんとなく捨てられなくて」

 そうですか、と言いかけて、拭い切れない違和感が引っかかる。――――彼女は、クロウが贈ったものに対して「なんとなく」だなんて言葉を使う人だったか?

「その、大事なものなのですか?」
「え?」

 問いかけたクロウの声は、自分でも分かるくらいに震えていた。しかし彼女には質問の内容の方が重要だったのか、気付いた様子はない。真剣な顔で考え込み、「あれ? あれ、うーん……」と必死に記憶を探り始める。

 火を灯した事を、後悔した。今こちらを見られたら、滲み出てしまっているだろう表情で悟られてしまう。

 あなたは、残酷なひとですね。

 渡した時に伝えたクロウの想いも、照れくさそうに頬を紅潮させて頷いてくれた彼女も、すべては泡になって消えてしまったのだ。

 あの日以来ほとんど会ってもいなかったし、特別な出来事があったわけでもない。食堂の人の好意で一品付け加えられた心なしか贅沢な食事をして、クロウの部屋で祝いにと慣れない酒を飲み酔っ払った彼女に髪飾りつけて! とねだられ、仕方なくつけようとしたらくすぐったいくすぐったいと騒がれて、そのうちに眠気に耐えられなかった二人がベッドに寄りかかって肩を寄せ合いながら眠った。たったそれだけだった。言葉にしてみれば、本当になんて事はない。もしかしたら師は感付いていたのかもしれないが、クロウと彼女の関係を知る者は誰もいない。クロウが直接訂正しない限り、彼女が悟る事はないのだろう。ただでさえ鈍い彼女に、そんな事は期待出来なかった。

「運びこまれた時右手に握り締めてたんだって、教えてもらったの。だからすごく大事なものなんだと……思う……。んだけど……ごめん、わからない」

 洗いざらい白状すべきか、一瞬、迷った。出来るはずもないとすぐに心の中で否定する。師に叩き込まれていた魔導書の扱い方も忘れ、不安を隠しきれていない彼女に、余計なものまで背負わせる必要はない。彼女が生きていてくれた、髪飾りだって壊れてしまっても一緒に連れて帰ってきてくれた、それだけで充分だ。多くを望んではいけない、あっという間に掴めなくなるまで離れていってしまうから。

 小さな頃からずっと傍にいた、女の子。些細な食い違いで喧嘩した日もあったし、彼女の才能に嫉妬した日もあった。けれど彼女はいつだって真っ直ぐにクロウと向き合い、惜しみない愛を与えてくれた。誰よりも大切で、守りたかった、代わりなんていない唯一のあなた。形が変わってしまうのだとしても、その想いまで死なせはしない。

「お礼の品だとか、そういう類のものかもしれませんね。あなたが持っていてくれた事、その人も喜んでいますよ」

 だから、無理やりにでも笑え、笑え。彼女が知る「幼馴染のクロウ」を演じきって見せろ。自分の掌に刻まれていく爪痕なんて、後で治せばいい。

「そうかな……そうだといいな……」
「大丈夫ですよ、私が保証します」

 努めて力強く言い切れば、ずっと曇っていた彼女の表情が目に見えて明るくなる。大丈夫だ、まだ、大丈夫。ナイフで切り裂かれたように痛む胸の苦しさも、雨が止めばなかった事に出来る。

 ありがとう、大事にするね!
 不器用ながらにクロウがつけた髪飾りを何度も何度も触って、幸せそうに微笑んでくれた彼女には二度と会えないのだとしても。

 季節が移り変わり、花が散りきった頃、彼女は無事復帰を果たした。ポラリス隊の隊員にもすんなりと受け入れられ、彼らと談笑している姿を見かける。中でも編入したてのリガルは弟が欲しかったらしい彼女のお気に入りになったようで、度々構っていた。

「そういやさー、なんかやたら親しげだけどお前らって付き合い長いのか?」
「……幼馴染ですからね」
「師匠も同じだしね!」

 得意げに語る彼女の頭に、あの花飾りはない。

 壊れてしまった髪飾りを自室の机の引き出しにしまう。血が落ちず、花びらも欠けたそれを、これ以上傷つけるのは嫌だった。きっと、こんな風にぼろぼろになっていいものではなかった。 ごめんね。唯一輝きを失わなかった青い石をそっと撫でる。この青を、私はずっと前から知っている気がするのに。

 昔憧れていた女性が長い髪を簪でまとめていた。凛とした背中が、風で揺れる飾りが、強く印象に残っている。彼も覚えていてくれたこと、どんな顔をしてこれを買ったのかと考えると心が弾んで、聡い隊員には「ご機嫌ですね隊長」と勘付かれてしまう。わかる? と返したあなたは、花のように笑っていた。

花散らす雨