その人間と共に過ごしたのは、たった数ヶ月のことだった。
悠久の時を生きる天使にしてみれば、記憶にも残らない僅かなひとときでしかない。ほんの気まぐれ、それだけだ。あの魔導師だって、自分の世界に戻ればいつまでも覚えてはいまい。アレは後ろを振り返らず懸命に前を向き、世界のために戦い続ける人間だった。やがて思い出になり、風化し、どこかで再会したところで互いに顔も分からぬままに違いない。
けれど、人の温もりに触れたあの日々を忘れてしまいたくはなかった。そうありたいと、思っていたのに。
「汚い字だな……」
この世界を去った魔導師がベルゼブブに宛てた一枚の手紙。ミミズの這ったような字は、お世辞にも綺麗とは言い難い。ところどころ書き直した跡もある。文字は読めるが書けないライリーに教えて書かせたとして、まだ子供の方がマシな出来になりそうだ。そこまで考え、この世界の文字を書き慣れているはずもないと気付く。あの魔導書に知識があったのか、数ヶ月の間で身につけたのかは定かではないが、ベルゼブブが読めるよう気を遣ったのだろう。そうまでされては、ベルゼブブも「読めない」と切り捨てるわけにもいかない。
「最後まで世話が焼ける奴だ」
別れの挨拶もせず突如いなくなった寂しさを紛らわすようにぶつぶつと文句を言いながら、手紙を解読していく。綴られていたのは面倒を見てくれたベルゼブブへの感謝と、子供達の健やかな成長と未来を願った祝福の言葉だった。本人のことなんて、何一つ書かれてはいない。なんともらしい文章だな、と読み終えた後のベルゼブブには優しい微笑みが浮かんでいた。
手紙を処分するのは、子供達に伝えてからでも遅くはない。そう思ったベルゼブブは、重石を乗せて机の上に戻した。
取って置くつもりは、なかった。紙切れ一枚に大した価値はない。いつかは、忘れていくのだろう。
――――ベルゼブブを温かく受け入れてくれた村も、慕ってくれた子供達も、魔導師の想いが込められた手紙も、何もかもが燃えていく。一度火のついた心は、二度と鎮火することはない。燃え滾る憎しみが、この身を焦がしていく。
「泥だらけの童は畑でも耕しておれ」
泥に汚れた少年の顔を拭ってやった服もしなやかな白い手も、500年経った今は血で塗れてしまっていた。