恋と呼ぶには淡く透明で、愛と呼ぶには鮮烈すぎて、いつまでもわたしの胸にしまってはおけなかった初恋だった。
幼いころ、両親と死に別れた。二人は親族もいない1級魔導師だったそうで、行き場をなくしたわたしが暁の協会が運営する孤児院に引き取られたのは運がよかったんだと思う。孤児院とは名ばかりの、身寄りのないこどもを寄せ集めただけの劣悪なところもあるって耳にしたから。かわりに、両親の形見といえるものは血塗れになったお母さんの紋章のみだった。
孤児院には年に一回、本部のひとが訪れた。このときのわたしには意味がわからなかったけど、「思わぬ掘り出し物があるかもしれない」んだって。せんせいは魔導師のこどもは魔力が高く生まれることが多いんだよって説明してた。だから魔導師になれる子を探してるんだって、わたしも青い石を握らされたのを覚えてる。残念ながらわたしには資質がなくて、身の振り方を考えなくちゃね、ってせんせいに言われた。仲良くしてくれてた男の子は「またね」って手を振りながら孤児院を去っていった。手紙を書くねって約束したのに、返事がきたのは一度きり。次の年に入ってきた金の髪をくるくると揺らしたかわいらしい女の子は、瞬く間に引き取り手が見つかった。ふたりとも、青い石がぼんやりと光っていた。
何度か繰り返していくうち、わたしにもわかってくる。本棚に並ぶ難しい本や用具は次代の魔導師を育てるためのもので、両親の魔力を一欠けらも受け継がなかったわたしには無意味なものなこと。成人したら働き口を探さなければならないこと。自分よりも小さい子たちの面倒を見ながら、いずれメイドさんとして働くのを目標に一般常識を身につけたり家事をがんばったりもした。けど要領が悪いわたしを雇ってくれるところは中々なくて、見かねたせんせいが掛け合ってくれて暁の協会の食堂で働くことになった。「応援してるよ」と頭を撫でてくれたせんせいは、大好きな育ての親。夜な夜な抱きしめたせいでとっくにぼろぼろの紋章は、ポケットに忍ばせて持っていった。
新人のわたしに与えられたのは五人部屋の隅っこ。なんにも取り柄のないわたしは先輩の邪魔をしないように縮こまって身支度をする。孤児院で過ごすさいごの誕生日にもらったちっちゃな鏡は、パっとしないわたしの顔を鮮明に映し出す。今日も冴えないなあ。せめてあとちょっと目がぱっちりしてて、鼻も高ければ……。嘆いても、わたしはわたしの顔と付き合っていくしかない。うまく寝癖を直せなかった髪を結んでごまかして、にっこりと笑顔をつくる。「笑っていなさい、この世界で生きていくために」がせんせいの教えだもの。
暁の協会本部には、たくさんの人がいる。全魔導師の半分が所属してるっていうから、当然の話だった。はじめて足を踏み入れたとき、すれ違った魔導師さんがひどく暗い顔で俯いてたのにびっくりして身構えていたのだけど、みんな食事時には気を抜いてることのほうが多い。想像してた以上にがやがやと賑やかだ。カウンター越しに話しかけてくれるひともいて、仲良くなった魔導師さんに行方知れずの男の子のことを尋ねてみたら「わからない」ってあっさり返されたのはショックだった。会えたらいいな、ってどこかで期待してたんだ。相手はわたしのことなんて忘れちゃってるだろうにね。
「おはようございます」
「おはよう。早速だけどじゃがいも剥いてくれる?」
「はい」
仕事はきらいじゃなかった。朝、昼、晩とパンを焼き、曜日に合わせてスープを用意する。今日はひよこ豆をベースにじゃがいも、たまねぎを細かく刻んだミネストローネ。肉の塩漬けはふんだんには使えないけど、少量でも味が引き締まっておいしいの。それから、ドライフルーツを混ぜたヨーグルト。めずらしく食材が手に入ったときにはキッシュとか、もっと手の込んだ料理もつくった。大変だけどやりがいがあったし、「おいしかったよ」や「きみの笑顔を見ると元気になるよ」って声が聞けるのは励みになった。五体満足で生きてるだけでも充分だって、思ってたの。あなたに会うまでは。
その日は雪が降るかもしれないって囁かれてたくらい空気がひんやりとしていて、寒さを吹き飛ばすためか食堂に集まるひとは普段よりも口数が増え距離も近かった。だから、ひとの輪を外れひとりぽつんと食事をとる黄金色の髪をした男性はやけに目立ち、雪原のなかに一部分だけ色を落としたようだった。
中級魔導師以上が着用を許される外套をしてるから、たぶん隊長さんなんだと思う。いくらわたしが人の顔を覚えるのが苦手で情報に疎くても、しばらく働いてればその程度のことは学習する。今まで会ったどの隊長さんよりも彼が若いことも、気づいてた。観察してるわけにもいかないので、慌てて自分の仕事に戻る。お皿を洗っても洗っても追い付かないのによそ見してる場合じゃない。でも。背筋を丸めずまっすぐに伸ばした彼の姿が、一枚の絵のように目に焼き付いて離れないでいた。
ふしぎなもので、一度彼のことを認識したら食堂に訪れる度に自然と目が彼を追っていく。いつも隅でもくもくとご飯を食べ、誰かと親しくする気配もない。時折彼の部下らしき魔導師さんが話しかけてたものの、一言二言の会話を交わしたらすぐに離れ、一緒にいるところは見なかった。
人がいなくなると、彼は表情がごっそりと抜けおちる。錆びて歯車が回らなくなった人形のようで少しこわい。綺麗な顔をしてるのに、もったいないな。心から笑ったら、みんな彼のことを放っておいたりはしないよね。余計なお世話だとわかっていつつも、ぴんと張り詰めた空気がいつか決壊してしまいそうではらはらしてしまう。あのひとには、頼れる大人はいるんだろうか。
わたしは彼の名前をしらなかった。同室の噂好きの先輩に聞けば答えを得られただろうけど、しらないままでもいいかなって思ってた。彼とわたしの道が交わることはないから。最近見ないなあ、任務かな。無事に帰ってきてほしいなって勝手に祈ってただけだもの。
雪も溶けはじめ、春の兆しが出てきたころだった。きっと今日もひとりだと決めつけてた彼のとなりに、彼と同一の紋章と外套を身に着けた魔導師さんが座ってたのは。
フードを目深に被ってる魔導師さんは年齢はおろか性別もあいまいで、わたしには判別がつかない。手ぶり身振りが大きくて、朗らかなひとなのかもって思った。なにか楽しい話をしてるんだろうな、っていうのは遠目でもわかる。そうしたら、彼がふっと笑った。お日様の下でぽかぽかと温まった猫を撫でるように、慈しみに溢れたやさしい表情だった。――――こんな顔を、するひとだったんだ。
人形なんかじゃなかった、とても人間らしいひと。クロウ。魔導師さんが呼んでいた彼の名前を、舌の上でゆっくりと転がす。たったそれだけで、勇気が湧いてくる気がした。
この日以降、クロウさんを見かけるときは副隊長さんもセットになった。ふたりは元々知り合いで、中級魔導師の最年少らしい。若いとは思ってたけど、そんなにすごかったなんて。クロウさんは整った容姿も手伝って、先輩たちは当たり前のようにしってた。どこから漏れた情報なのか、身長だとかそういう話は聞かなかったフリをした。
「このくらいしか娯楽がないのよ」だそうです。
二人が三人になったのは、間もなくのこと。まだ身長が伸びきってない、活発そうな少年は二人の名前を気安く呼び捨てにしてあとをついて回ってた。孤児院にいた子を思い出し、なんだか憎めない子だなって感じたのはわたしだけじゃなかったのかクロウさんも副隊長さんも彼をかわいがってる様子だった。少年は鼻に傷があって特徴的なのと、「旨い飯をありがとな!」って話しかけてくれる子だったので、顔と名前を一致させるのは簡単だった。リガルくん。リガルくんは歳が近いわたしに親しみを覚えてくれて、個人的な話をすることもあった。第2支部にいたんだけど、ポラリス隊に拾ってもらって本部所属になったんだって。隊長副隊長揃って人使いが荒い。不満そうに、誇らしげに彼は語った。クロウさんの、わたしが知らない顔がまたひとつ増えた。やんちゃな弟に手を焼く、いいお兄さんだった。
毎日食事をつくって戦場から帰ってきた魔導師を出迎え、再び戦場に送り出す。わたしは他のひとより鈍くできている人間だけれど、心をすり減らすってこういうことなのかな、って考えるときもある。いなくなってしまったことにすら気づかないままいつの間にか会えなくなったひとは、数えきれないくらいいるんだろう。彼らはわたしみたいな戦う力を持たずに狭い箱庭で生きる人々も守って散っていった。リガルくんも、ポラリス隊に遭遇してなかったらどうなっていたかわからないって言う。「俺はラッキーだった」16歳の男の子がそう話すのが、わたしが生きている世界。
陽のささない場所でも、季節は巡る。もうすぐ、クロウさんを知って一年が経とうとしていた。
意中の相手にお菓子を渡して想いを伝える祝祭が、今年もやってくる。去年までは気にしてなかったわたしも、そわそわして浮かれてた。チョコレートケーキ、ブランデーが香る生チョコレート、しっとりしたガトーショコラ。考えるだけで胸がいっぱいで、寝ても覚めてもチョコレート一色。甘いものは好きかな、質より量のほうがいいかな。ばかみたいに心躍らせてにんじんの飾り切りをしそうになった自分のことは、そんなに嫌いじゃなかった。埒が明かないので、同室の先輩にアドバイスをもらって材料を買い揃えていく。お給料は高いほうじゃないけど、食事は賄いがあるしお洋服も支給されてるし住む場所だってある。使うところがなかったから、お菓子をつくる余裕はあった。渡すときにこんなぼさぼさの髪じゃいやだなって、ラベンダー色のリボンも買った。生まれてはじめての、自分へのご褒美。
「かわいくなったね」焦がしたお菓子を快く食べながら先輩が褒めてくれたのが、なによりも嬉しかった。
リガルくんに協力を仰ぐか迷ってるうちにあっという間に当日がきてしまう。どうしよう、朝は食堂に来てなかったから本部にいるのかもわたしにはわからないのに。宿舎のほうに行ってみようか中庭でうろうろしてたら「あれ」と声をかけられた。
副隊長さんだった。「クロウ?」尋ねられ、わたしはこくりと頷く。今わたしの顔は真っ赤だと思う。全部、ばればれみたい。フード越しに見守られてるのを肌で感じたんだもの。副隊長さんは親切で、クロウさんを呼びに行ってくれるのだという。断ろうとしたら、今日は特別な日だよってやわらかい口調で返された。
「ありがとう」
「え?」
お礼を言うのはわたしのはず。なんでこのひとが? ぐるぐるしてるわたしを置いて、副隊長さんはクロウさんがいる場所に向かって歩き出す。風で揺れる外套が特別なひとの証で、布を隔ててない素の顔を見てみたかったなって思った。クロウさんとそっくりなんじゃないかな、って、なんとなく感じたんだ。
「すみません、何か御用でしたか?」
ぼうっとしてたわたしが悪い、悪いんだけど、いきなりのことに心臓が飛び出そう! わあわあ、こんなに近くで見るのはじめて! 宝石以上にきらきら眩しくてどうしたらいいかわからない!! 心なしかいい香りまでしてきた気がする……!! わたしなんかにも敬語で接してくれるんだ……!!
「あ、あのっっっ!!! これっ!!」
色んな言葉を用意してた。いつもありがとうございます、とか。あなたが生きて帰ってきてくれるのがわたしの支えでしたとか。なのに紙切れより軽く吹き飛んで、口をパクパクさせながらラッピングしたチョコレートを渡すだけで精一杯だった。わたしのばか!
「私に、ですか?」
「そ、そうです! あ、わたし食堂で働いてるんです! 怪しい人間じゃありません!! 中身もあの、ふつうのブラウニーなので!!」
勢いで捲し立てると、彼がぽかんとした顔をする。失敗した、失敗したよね!? もうやだ、穴があったら入りたい……!! 誰かわたしを殴って!! 身の程知らずって、笑ってよ。でもほんとうにばかにされたら、わたしはみっともなく泣き喚くに違いない。めんどくさい女。わたしはわたしのことが大嫌いだった。なのに、彼に告白しようとしたのは――
「ありがとうございます」
侮蔑もなにも含んでない、わたしへの純粋な感謝のみが滲んだ、じんわりと心に染み渡っていく一言。受け取ってくれた手は繊細そうな見た目とは裏腹に、がっしりと大きかった。困難の中でも諦めず戦い続けてきたひとの、力強い手だ。水仕事で荒れてるわたしとは、全然違う。
振り返る。恋と名がついたばかりの気持ちをどうして形にしようとしたのか。わざわざ苦いチョコレートにしなくたって、「おひめさまになりたい」と夢見た幼い少女のようにふわふわと甘い綿菓子のままにしておくこともできた。しあわせな初恋だったと、思い出にできただろう。でも、でもね。
「あなたが好きです」
彼が困った風に黙り込む。どうやったら傷つけずに終われるのか、考えてるのかな。ごめんなさい、あなたに迷惑をかけたかったわけじゃないの。胸は一向にどきどきと高鳴ってるのに、握りしめたてのひらはどんどん感覚を失っていく。もしかしたら、だなんてわずかな希望を抱いちゃいけない。このひとは、熱に浮かされたわたしを見ても”隊員のひとと接するときと変わりなく”落ち着いてたから。
「すみません。私は、あなたの想いには応えられません」
「は、い。あの、チョコレートは受け取ってもらえます、か……? くるみもいっぱい入ってて、自信作なんです」
いたいなあ、すごく痛い。火傷した傷口が、じくじくと突き刺す痛みを訴える。このまま化膿して跡が残るのかもしれない。何事もなかったように癒えていくのかもしれない。どっちもいやだなあ、って拒否しようとするわたしはどうしようもなく我侭だなあ。
「笑っていなさい、この世界で生きていくために」
うん、先生。
「……ええ、大切に食べます」
「ありがとう」
口にして、副隊長さんがなんでわたしに同じ言葉をかけたのか、少しだけわかる気がした。遠ざかっていく彼の背中は、やっぱりあのひとと似てる。
ちっぽけなわたしの気持ちなんて、きっとあなたには届かない。それでいいの。あなたが道に迷ったとき、暗がりでひとりぼっちだと泣いたとき、あなたを愛していた人がいたことが、足元を照らす道しるべになれればいい。
「あ、名前も伝え忘れたなあ……」
初恋は叶わないんだって、誰かが言ってた。せんせいだったかな、赤い巻き毛が鮮やかだったおねえさんかな。だから愛おしくうつくしく儚いのだと。わたしがその境地に辿り着くには時間がかかりそう。しんしんと降り積もる雪は陰気くさくて、視界を覆い尽くす涙はしょっぱいんだもの。今のわたし、とんでもなく不細工だろうなあ。でも。
お守り代わりに縋ってたお母さんの紋章をやっと過去にして、自分の足で歩いて行ける気がした。