「お前はソロモンの末裔であり、お前の持つラジエルの書は特別なものだ。お前こそがこの世界を救う鍵なのだ」

 師があなたに告げる。青天の霹靂だった。

 ソロモン。彼の名を知らぬ魔導師はいない。
 天界大戦時に人間と堕天使を率いた人物であり、暁の協会の設立者だ。ソロモンがいなければ、この世界は創世神の手によって滅ぼされていた。偉大なる王。王というからには跡継ぎとして複数の子を儲けていてもおかしくはなく、現代まで生き延びている可能性もゼロではない。だが、自分が末裔とはどういう事だ。寝耳に水もいいところである。冗談でしょう師匠、と聞き返そうにも、場の空気がそれを許さない。死の淵に立ち、追加契約までしてどうにか生き抜いた彼が悪ふざけをするわけもなかった。

 彼の言う通り本当に自分がソロモンの末裔だとするのならば、父か母かがソロモンの血筋なことになる。しかし、情報が致命的に足りない。あなたが物心ついたときには暁の協会が管理する孤児院にいたからだ。

 父親の顔は朧気で、母親に至ってはかろうじて名前を知っている程度である。記録として父親が魔導師であったことだけは教えてもらっていたが、どのような性格だったのかや生まれの話などは一切知らなかった。幼少期を共にしたクロウもあなたからはそう聞いていたと話していたので、記憶障害が原因ではなく元々両親と過ごした思い出は希薄だったらしい。多くの魔導師や村人と同じように、父も母も歴史に刻まれるような劇的な人生ではなかったのだろうと漠然と思っていた。

 なのに、ソロモンの末裔?

 世界を救う鍵?

 訳が、わからない。思考が追い付いてこない。自分は何も変わってないのに、昨日までの自分とは何かが決定的に噛み合わなくなっていた。

「ソロモンに末裔とかいたんだな」
「魔導師は血筋が重要ですから、相応の家系なのだろうと推測はしていましたが……」
 
 話を聞き終えたリガルとクロウがじろじろと興味深そうにあなたを見てくる。二人の態度が急に変化するとは思えないが、居心地の悪さを感じたあなたは身構えてしまう。

「いやでも……なあ?」
「ええ」

 何が「なあ」で「ええ」なのか。二人で通じ合わないでほしい。不可解そうにするあなたに、彼らはいつもと同じ調子で笑った。

「にしちゃあお前、オーラがなさすぎねえ? 英雄の子孫ってもっとこう、高潔な響きかと思ってたぜ」
「あなたとは長い付き合いですが、私も気づきませんでしたね」

 ひどい言い草だ。でも、あなたを気遣ってくれたことくらいはわかる。特にクロウがこんな物言いをするのは珍しい。彼らにとってあなたは”ポラリス隊の副隊長”でしかないと、わざわざ言葉にしてくれたのだ。よくできた隊長と部下である。肩の力が抜けたあなたの気持ちが伝わったのか、エルも緊張が解けた顔でこちらを見ている。

 得難い友人に出会えた、それだけで前へ進める気がしていた。

「ソロモンの末裔という貴重な戦力をここで犠牲にすることはできない」

 現実は、いつだってあなたを追い詰めるばかりだったけれど。

 女神サタナエルと女神アザゼルが天界に移送され、天上の塔にある審判の門を開く機会を失った。八方塞りの魔導師たちに、アスタロトは代わりさえ用意できればいいと策を授けてくれた。ソロモンの血を引く者か、女神の眷属か。どちらかの命を捧げ、サタナエルとアザゼルの埋め合わせをすればいいと。つまりは世界のために、誰かが人柱になる。その中であなたは、あなただけが、選択肢から外された。

 命の価値は、残念ながら等しくはない。

「元々女神が4柱揃うと、あの化物が出現するのは確定していたのだ。揃う事はなかったのだから気に病まずともよい」

 アスタロトは、サタナエルとアザゼルが連れ去られたのは必然だったのだとも言った。誰も気にしなくて良い、と。無慈悲にも聞こえかねない一言は、彼女なりの慰めと労わりの言葉だったのだろう。わかっている。でも、喉元でつかえた言葉をまだ噛み砕けていない。
 
 ならば、仲間たちの死も定められていた運命なのですか。

 魔導書と契約をする際に対価を支払っている魔導師は、どのみち長くは生きられない。だからといって、死ぬために生きている人なんて誰一人いなかった。明るい未来を自らの手で作るために、生きていた。

 子どもが生まれるんです。

 幼馴染の女性と結婚したばかりだった年若い部下は、届いた書簡を握りしめ今にも踊り出しそうな浮かれた声で話す。周囲まで温かい気持ちで満たす、幸福を絵に描いたような笑顔だった。

 男の子かな、女の子かな、名前を考えないと。占ってもらった方がいいでしょうかね? 妻は私に似てほしいって言うんですけど、私は妻に似てほしいです。くりっとした目が可愛らしい人なので……。なんだなんだ惚気か! お前戦場でそういうの話すのやめとけって! 高確率で死ぬぞって習ってねーの? え……っ! ま、まずかったですかね。もうおせーよ! 全部聞いた! しゃーねーなー、俺たちに任せろ。フォローするよ。ほらパパに俺の肉をやるから有難く食え。じゃあ俺は人参やる、リガルが無駄に飾り切りしたやつ。無駄ってなんだよ無駄って。女の子の料理だと思い込みたいってそっちが頼んできたんだろーが。はあ……。いや隊長すみませんこれはそのですね、日常に彩があれば士気も保てるかと思いまして! 決して不純な動機では! 必死になればなるほど墓穴掘ってねえ……? うるせー! こっちは独り身なんだよ!! お子さん元気に生まれるといいな! え、あ、はい、ありがとうございます!

 式典の、ほんの一月前の出来事だ。父親を知らず生まれてくる子どもに、とっくに灰になってしまった手帳だけでも届けてやりたかった。びっしりと書き込まれた数々の名前候補を見れば愛されていたことを実感できるだろうから。

 蝋燭の火は、簡単に消えてしまう。誰かの息で、ふとした風で、冷え切った水で。でも、どうせなら生クリームたっぷりのケーキに歳の数だけ立てて陽気な歌を奏でながら消したいと誰もが一度は夢を見る。一本、また一本と増えていくと、自分は叶えられなかった夢を次代の子どもたちこそはと志を新たにしていく。「肉も、にんじんも、もらいますね。父ちゃん頑張るからな!」彼がそうであったように。

 きっといい父親になる。騒ぎに紛れた言葉は、伝えられないままだった。

 生きて、叶えてほしかった。死はあまりにも身近で、すぐに麻痺してしまったけれど、ほんとうは誰にも死んでほしくなかった。置いていかないで、ほしかった。お前だけは生きろ、なんて。残酷なことを言わないで。

 お前は救世主になりえる。アドニアの言葉通りだとしたら、正しい判断だ。英傑ソロモンと同等の力を秘めているかもしれない人間をこんなところで死なせるわけにはいかない。他に手段がなければともかく、誰でもいいのなら他の魔導師を選べばいい。あなたが隊長であっても、悩んだ末にやはり同じ決断を下すはずだ。だから、頭では理解している。すべては世界のためなのだと。――運よく生き残ってしまっただけの自分に何ができるのかも、探し続けているのに。

 胸を張れ、とマクレガーは言ってくれた。生き残った者が勝者だと力強い言葉で励ましてくれた。澱んだ心が晴れていったあの時の気持ちは生涯忘れない。けれど、始めから生かされている今の自分が受け取っていい言葉なのだろうか。切り捨てられた命があったのに、師も、上司も、親友も、部下も、仲間も。誰もがみな命を懸ける覚悟でここにいるのに、自分だけが同じ場所へは行けない。

 悔しい、とは違う。指名されればこの身を差し出すつもりではいるが、女神の役に立てないと己を責めるほどあなたの忠誠心は高くもなかった。腹を立てているわけでもない。苛立つ理由がないからだ。胸に燻るもやもやとした感情が上手く消化できない。唇を噛む。じくりとした痛みがなければ、惨めにも泣き出してしまいそうだった。

 落胆するだろうか。あなたたちが未来を賭けた魔導師が、こんなにも不甲斐ないことを。

 誰にも言えない。

 最期まで誇らしく生きている師にも、老兵はただ去るのみと堂々とした生き様を見せたマクレガーにも、自らを犠牲にしようとしていたクロウにも、言葉なく彼らを見ていたリガルにも。

 誰にも言えない。

 あなたたちに託された未来を受け止めて生きていきます。真っ直ぐに答えられる立派な自分でありたかった。――――英雄ソロモンのように。

抉り取られた心臓