私の王様は、底抜けのお人好しだった。

 困ってる人は放っておけないと他の候補者に手を貸し、止めておけばいいのに揉め事に首を突っ込んでは仲裁することも多々あった。結果、自分だけが不利益を被ったのは一度や二度じゃ済まない。けれどあの人は愚痴の一つも零さずに「心配してくれてありがとう」と笑っていた。私には、あの人の考えてることなんてまったくわからなかった。だって私にそんな機能は備わってない。魔導書は、我が主を王に導くべくサポートするだけのもの。巻物の形で作られた私は、必要な言葉を浮かべるだけ。

 だから、彼の行動がどれほど危ういものなのか本当の意味では理解していなかった。人は裏切るものだと、この時の私はまだ知らなかったのだ。

 目の前が、赤く染まる。ぐしゃりと音を立てて、あの人が崩れ落ちていく。横たわり、ヒュー、ヒューと苦しそうに息をするあの人に、候補者の一人は歪んだ顔で見下ろしながら喋った。

 お前が俺を信頼してくれて助かった。やりやすかったよ。お前の偽善っぷりには反吐が出たが耐えた甲斐があったな。

 カッと身体が異常な熱を持ち、蓄積された様々なデータが弾け飛ぶ。ばちばちと何かいやな音がするなと思ったら私から発せられているものだった。感じたこともない何かが全身に駆け巡って、今にも爆発してしまいそうになる。このままじゃいけない、とどこかで恐れながらも、それでもいいかと思った。コレにかける慈悲なんかない。壊れてしまえばいい、壊れてしまえ、全部、全部、コワレテシマエ、私から王を奪う者なんて――……

「だめだよ」

 力の入っていない、弱々しい声だったのに、何故だかよく響いた。おいで、と手招きされ、私はあの人の傍まで飛ぶ。私は魔導書だから、あの人のための魔導書だから、呼ばれたら答えないわけにはいかない。

「ごめんね」

 精一杯の力を振り絞って、あの人が私を撫でてくれる。王に撫でてもらうのが、とても好きだった。私に心なんかないけれど、多分、心が満たされるってこういうことなんだろうなって思えた。

 でも、でもね。おうさま。私が好きだったのは、暖かい手で、太陽のような笑顔を浮かべて、大事に大事に触れてくれるあなただったの。血だらけの、段々と冷たくなっていく手が欲しかったんじゃない。私を安心させるための引き攣った笑みなんていらなかった。いらなかったの。

 謝らないでよ、謝るくらいなら、いかないで、いかないで、おいていかないで。わたしのおうさま、わたしの大好きなおうさま。ずっとずっと、大好きな、

 ピー。電子音が、最後に鳴る。そうして私の世界は『終わりを告げた』

 この世界は繰り返す。定められた人間が王にならなかったことに業を煮やした基底世界は「定められた人間と同じ魂を持つもの」を幾つも、幾回も、幾人も別の世界から呼び出しては候補者争いを繰り返す。勝者は始めから決まっていた、しかし事は上手く運ばず何度も失敗した。「私」は何度も何度も、死んでいくあの人を見届けた。

 今回召喚されたあの人は、少し無鉄砲なところが目立って、思い立ったら即行動する人だった。こんな調子ではすぐに殺されてしまう。だから私は何が最善なのかを必死に考え、慎重に、慎重にあの人を誘導して、自分で選んでいる風に見せかけつつ私が望むレールに乗せた。あなたならできるよ、あなたなら大丈夫。心からの文字を綴る。任せてと笑う顔は、私が見たかった笑顔だった。でも、今回もだめだった。

 補充するようにして、再びあの人がこの地に降り立つ。弱気で、常に俯いている人だった。けれど己に課せられた使命から逃げずに立ち向かう強さがあった。あの人が前に進めるように私は背中を押す。だって私はあなたの魔導書だから、あなたを王にするために存在しているの。頑張るねと私を撫でてくれる手は、私が求めていた温もりだった。でも気の弱いあの人は、第一塔界であっという間に儚い命を散らした。

 すべては砂時計と一緒だ。砂が落ち切ったらひっくり返して、また新しく時を刻む。中の砂は永遠に変わらない。

 もう何度繰り返しただろうか。私はどうして、記憶を保ったまま在り続けているのだろう。本来であれば別のレメゲトンがあの人に与えられた際にリセットされているはずなのに。基底世界は事務的に交換しただけで、私には気づいていないのかもしれない。世界にしてみれば、私なんて吐いて捨てるほどある魔導書の一つにしか過ぎない。

 好都合だと思った。悲劇を繰り返すこの世界で、私ならきっとやれる。私は未来が欲しい、あの人が生きている未来が。そのためには、こんな無機質な身体じゃ無理だって途中で気付いた。躓いた箇所で石を拾い、違う可能性に導き、次に生かしても、出来ることは限られている。あの人と同じように、そう同じように並んで、手を握って、あの人の名前を呼んで、こっちだよと誘うための声がいる。叶うことなら、頭を撫でてほしい。私に美醜の概念はないけれど、あの人に可愛いって思ってもらえる容姿がいいな。どうせ私自身はエラーの塊なんだから、それくらい構わないでしょう?

 ああ、名前もつけなくちゃ。何がいいかな。

「クラウラ」

 あの人が、親しみを込めて私の名前を呼ぶ。 レメゲトン――Lemegeton Clavicula Salomonis。LenとClaula。我ながら安直だったけれど、あの人が呼んでくれた瞬間に何よりも価値のあるものになった。それがどれほど嬉しかったのか、どれほど心地良い響きだったのか、人の形を取ったばかりの私は表現する力を持たない。

 でも、なんでかな。あの頃あんなに満たされていた気持ちが、どこかに空いた穴から砂のように流れていく気がするのは。

 クラウラ。私の王様に、呼んでほしかった。

壊れた砂時計