春を告げるにはまだ早く、朝晩は毛布を重ねなければならないほど冷え込みが激しい季節。ここ数日雨が続いていたのもあって、昼過ぎになっても気温は下がりっぱなしだった。
ようやく少し暖かくなってきてたのに、とベッドに臥せたクロウはごほごほと咳き込む。文句の一つも唱えられない体が恨めしかった。これでも今日は調子が良い方だ。倦怠感もないし本の続きを読もうかな、と思える程度には。
本は良い。
冒険譚は、ろくに外にも出られない病弱な少年に未知の世界を見せてくれる。児童書は、時折ぞっとするような内容が隠れていて、気づいたときにはより一層世界観にのめり込む。歴史は、自分が生まれるよりもずっと昔の出来事を知れるのが面白い。生物や植物で埋め尽くされた図鑑も好きだ。自分のペースで続きを読める、というのも少年には合っていた。とはいえ孤児院に置かれている本は限られているので、お気に入りの一冊を繰り返し読むことも多かった。クロウが好きな本だから、と他の子どもたちが譲ってくれていることには感謝しかない。
「クロウ、起きてる?」
半身を起こしてサイドテーブルの上に置かれた本を手に取ろうとしていると、幼馴染がひょっこりと顔を出す。
「うん、起きてますよ」
「ほっぺた赤くてよかった。一昨日なんてびっくりするくらい青白かったもん。あのね、今みんなで壁にお絵描きしてるんだよ。クロウもどうかなって誘いにきたんだ」
「壁に?」
「せんせいたちには内緒だよ」
しい、と人差し指を口元にあてる幼馴染は、いけないことだと頭のどこかでは分かっていても好奇心には勝てない小さな子どもそのものだった。いつもはおとなしく、聞き分けがいいから、こんな顔をするのも珍しい。
「クロウとゆっくりお喋りできるし雨はきらいじゃないんだけど、みんなは飽きたみたい。誰が一番上手く描けるかって遊び始めたんだ。すっごく楽しそうでしょう!」
ああ、それはほんとうに楽しそう。
最初に言いだしたのは新しい遊びを思いつくのが得意な子か。それとも紙いっぱいに絵を描くのが好きな女の子か。誰であれ、子どもたちの間では些細なことだ。どうせ怒られるときはみんな一緒なのだし。了承したクロウに、共犯者が増えた幼馴染は白い歯を覗かせてとびきりの笑顔を見せた。
「ちょっと寒いし上着は着たほうがいいよ」
「そうします。ありがとうございます」
素直に忠告を聞き入れて、二人で部屋を出る。
「何を描こうかなあ、クロウはどうする?」
「うーん……」
ベッドから抜け出し、廊下を歩くだけで息を切らしている自分がまともに描けるだろうか。長時間立ち続ける体力もなければ、腕を上げ続けることすら困難だ。でも、せっかく誘ってくれた幼馴染に否定の言葉を返すのは気が引ける。子どもたちとはみんな仲が良いけれど、雨の日はあなたとゆっくりお話できるなんて言ってくれる友達はこの人しかいないから。
「……ひみつ。当ててみてください」
「えっそうくるの!? じゃあ当てっこしよう、いい?」
「いいですよ。きみが描いたやつわかるかな……」
「が、がんばって描くから! ヒントだって出すし!」
「僕もがんばりますね」
腕が鳴るね。
笑い合いながら、子どもたちが遊んでいる場所へと向かっていく。やさしい雨音が、ふたりを包んでいた。
「あっクロウ! 今日は調子がいいの?」
「ここ空いてるよ。はい、筆!」
「ありがとうございます」
筆を受け取り、きゃいきゃいとはしゃぐ子どもたちの輪に加わる。今朝までは何もなかったはずのクリーム色の壁が、すっかり色を変えていた。
家族3人で手を繋いで笑い合っている絵、クリームがたっぷり乗ったいちごのショートケーキ、ティアラを被ったおひめさま。
それらに共通するのは、“子どもたちの夢”だ。幼い子が見る無邪気なものから、絶対に叶わないものなど様々な形で具現化された、夢の欠片。クロウも例に漏れず、描いていたのは魔導書だった。魔導師の命にも等しい、魔神を召喚するために必要な武器。今のクロウには憧れだけで手を伸ばすことすら無謀だと止められるもの。
「あなたは体が弱いから……」
何度も、何度も聞き飽きた台詞だった。相手も意地悪ではなくひどく申し訳なさそうにしているものだから、クロウはいつからか他の子どものように「あれやってみたい」と口に出すことはしなくなった。自分には無理なのだと、現実を突きつける方も突きつけられる方も傷つくばかりだったからだ。
だけど。
「体が弱いの? そっか……教えてくれてありがとう。こうしてお話してるのは平気?」
「え? うん……」
「よかった。あのね、今まで同い年くらいのお友達っていなかったんだ。クロウがお友達になってくれて、すごく嬉しい」
“病弱な少年”ではなく、“クロウ”に向けられる、真っすぐな言葉だった。僕もだよ、と返せればよかったのに、出会ったばかりの頃のクロウは少々捻くれていたせいでそっけない返事しかしなかった。──どうせきみも、僕が一緒に遊べないとわかったら離れていく。
しかしクロウの予想に反し、何ヶ月一緒に過ごしても退屈そうな顔ひとつしなかった。クロウのベッドの傍らで本を読んだり、紙を折ったり、勉強したりしながら、合間合間にクロウに話しかけては満足そうにうなずく。風邪をひいているときは移してはいけないからと隔離されていたけれど、ただ単に体調が優れないときはそばにいてくれた。クロウが好きなものの話を楽しそうに聞いてくれた。そのうち、この人は外ではしゃぐよりは部屋で静かに過ごしている方が落ち着く性格なんだな、と気づいた。無理をして付き合わせているわけではないらしい、と気づいてからは、随分と気が楽になった。同時に、決めつけてしまっていた自分を恥じた。
自分が見ていた世界は狭かったのだと、教えてくれたのはあなただった。
クロウが続きものの話を読んでいたとき、「面白いですよ」と勧めると「じゃあクロウが全部読み終わったら読んでみるね」と言われたことがある。そのときクロウが読んでいたのは途中の巻だったので、1巻を読んでみればいいのになあと思った。クロウが読み終わった本を本棚に戻して、次の巻を手に取ろうとしたとき、なんとなく気になることがあった。自分が続きものの本を読んでいるとき、いつも必ず全巻揃っている。
もしかして、と尋ねたクロウに、「暗黙の了解? なのかなって思ってた。みんな、クロウが読んでるときは別の本にするから」と返されて、そこで初めて気を遣ってもらっていたのだと知った。同じように遊ぶことはできなくても、クロウの世界を守ろうとしてくれていたのだ。
今だって、地面に座り込んで床に線を引くくらいしかできないクロウを歓迎してくれている。クロウが思うより、世界はずっと優しかった。
「できたっ」
「僕もできました」
「ええと……鞄? かな?」
「外れです。きみのは……きみのは……?」
「なんでそんなに悩むの!? 簡単だと思ったのに」
「四角い……パン……? ですか……?」
「外れです。食べものじゃないよ。クロウもヒントください」
「僕も食べものじゃないですよ」
うーんうーん、と二人して頭を悩ませる。同様に一発で当ててもらえなかった自分を棚に上げてしまうが、相手の絵は独創的だ。当てはまるものがなかなか思いつかない。いくつか挙げてはみるものの、空振りだった。
「特大ヒントを出します。みんな夢を描いてるみたいだったから倣ってみたんだよ」
「僕もです」
「……あっ」
二人の声が重なる。弾んだ声に、他の子どもたちの目線がこちらに向いたのが分かったが、おかまいなしに正解を叫んだ。
「魔導書!」