妖精の国ティルナログ。子どもなら誰でも知っている有名な絵本に出てくる国の名前だ。
ある日人間の少女が森で迷子になり、途方に暮れていると「こっちよ」と囁く不思議な声を聞き、何個も落ちている林檎を目印に声がする方向に歩いていく。林檎の数が十個目に達した頃、急に視界が開け、色鮮やかな花に囲まれた妖精の国が広がっていた。美しい容姿をした妖精の女王が、にこやかに微笑んで歓迎してくれる。いらっしゃい、かわいらしいお嬢さん。
あなたがまだ小さい頃、母親にねだって何度も読んでもらったのを朧気にではあるが覚えている。一個、二個、と林檎を数えるゆったりとした優しい声も。古い思い出を、まさか魔導師になった今聞くことになるとは。
迷いの森はティルナログに通じているから入ってはいけないと、村人は言った。帰って来られなくなるのだと。だが、任務で訪れているあなたたちに入らないという選択肢はない。それも女神ベルゼブブから直接受けたものとあっては尚更である。村人に教えてくれた礼を言い、ポラリス隊は迷いの森を目指す。
「しっかし古の妖精、ねえ。お伽話で出てきた女王はなんていったっけか」
あなたが答えるよりも早く、クロウが正解を口にする。――妖精の女王、ティターニア。
「ああそうだそうだ、そんな名前だったわ。飽きるほど読み聞かされたのに案外覚えてねーもんだな」
「それはあなたの記憶力に問題があるのでは? 主様もクロウもすぐに出てきていました」
「俺を筆記試験でトップ取ってそうなこいつらと一緒にすんなっての」
リガルは不服そうに唇を尖らせる。
「けど内容はわかるぜ。女の子が妖精の国に迷い込んで、そこで出会ったティターニアに薔薇のケーキを振舞われるんだよな」
自分の記憶と照らし合わせ、あなたは頷く。ピンク色の薔薇がたくさん乗ったケーキにはチョコレートでできた蝶が止まっており、絵本の中にしか存在しない美味しそうな菓子に憧れたものだった。
「な、あれ美味そうだったよな。薔薇の紅茶は微妙そうな感じしかしねえけど。他の妖精が楽器を演奏して二人でダンスもしてた。で、……ラストどうなったっけ」
リガルの問いにあなたも考えてはみるものの、どうにも思い出せない。怪我の後遺症でいくつかの記憶が抜け落ちてしまったが、それとも違う気がする。たぶん、歳を取るにつれ薄れてしまった部分なのだろう。
「女の子は妖精の国でティターニアと仲良く暮らしました、ではありませんでしたか?」
「げっ、結局帰れなかったのかよ」
「ええ、そのはずですよ」
流石クロウだと感心し、彼のおかげでぼんやりとではあるが最後のページが頭に思い浮かんできた。二人とも笑顔で手を繋いでいた、ありふれたハッピーエンド。可愛らしい絵も相まって幸せな印象しかなかったが、深く考えればあれは……。
「……振ったの俺だけどこれ以上はやめとこうぜ」
あなたは全力で同意する。そもそもティターニアが女の子を呼び寄せて妖精の国に閉じ込めたのではないか? だなんて、子どもの夢を壊すべきではない。どうせ自分たちはこれから迷いの森で現実と直面することになるのだ。ひとつくらいは夢を残したままでもいいだろうと、腰に下げている自身の魔導書をそっと取り出した。