空き家があるのでよろしければ、と村人が提供してくれた家は年季が入ってはいたが部屋数が多く、野営続きの魔導師達には非常に有難い話だった。一番広く比較的綺麗だった部屋を女神に充て、階級毎に数人ずつで割り振り、中級魔導師のクロウと幼馴染の副隊長は二人部屋になった。大量の埃に襲われはしたものの窓を開ければ多少はましになり、久しぶりのプライベートな空間に張り詰めていたクロウの気も抜ける。

 随分と伸びた彼女の前髪が目についたのは、そんな時だった。

「髪切りましょうか?」

 邪魔ではないかと何気なく提案する。すると彼女は間髪を容れずに「おねがい!」と返してきた。懐かしささえ感じる、明るく弾んだ声で。

「ありがとー。ぼちぼち鬱陶しかったんだ」
「言ってくれたらよかったのに」
「んー、なんとなく言い出しづらくて。リガルとか器用そうだし頼もうかとも思ったんだけどね」

 彼女の気持ちも分かる。本部が崩壊してから今日に至るまで、怒涛の日々だった。自分達が進もうとしている道は本当に正しいのか、四人の女神を全員助ける事が出来たとしても神に勝てるのか、誰もが胸の奥底で不安を抱えながらも包み隠して希望を信じ、一歩一歩確実に歩いてきたのだ。他の事を気にかけている余裕がなかったのは誰しも同じで、自分からは切り出せなかったのだろう。

「でもクロウがやってくれるならそれが一番。任せました、隊長!」
「はい、任されました。自分で切ろうとは思わなかったのですか?」
「二人はなんて言うかな? ってどきどきしながら顔を合わせたら遠慮のない師匠に大爆笑され幼馴染は必死に笑いを堪えてた幼少期のトラウマを私は生涯忘れない」
「……すみません」

 申し訳ない事をしたとは思っていた、いたが、未だに引きずっているとは。回顧してみても中々に衝撃的な光景だったとは黙っていた方がよさそうである。

「どうせ不器用な私が悪いんですう。いいよ、エルなら絶対褒めてくれるから」
「あれは流石のエルも厳しいのでは?」
「クロウの魔導書に落書きしてやりたい気分」
「すみません本当に、全面的に私が悪かったのでやめてください」

 口は滑らせるものではない。神聖な魔導書に彼女が手を出すはずもなく、その点に関しては微塵も心配していないが、何かしらの報復はされそうだ。就寝時には特に気をつけた方がいいかもしれない。あれはあれで似合っていましたよ、と今更伝えたところで火に油を注ぐだけなのだろう。

 彼女を木の椅子に座らせ、鞄から鋏を取り出す。念のため磨いていると、よほどご機嫌なのか調子外れの鼻歌が聞こえてきた。確か彼女の故郷の歌で、まだ幼い頃はよく歌っていたのを覚えている。聞かなくなったのは、いつからだったか。堕天使デカラビアのように美しく澄んだ音色というわけではない、けれどたわいもない日常にほのかな温もりを宿すその歌がクロウは好きだった。

「ここは女の子の部屋かな。子どもが多かったんだろうね。柱にたくさん線があったもの」

 過酷な運命を背負った魔導師とは到底思えない柔らかな声で、歌うようにそっと囁く。机の上で倒れていたぼろぼろのぬいぐるみをそっと戻す手つきは、生まれたての赤子に触れるかのように優しい。

「なんだか安らぐのは、おばあちゃんの家って感じがするからかも。とは言っても私の勝手なイメージだけどね。何か事情があって手放したのかな」

 どうしてこうも、彼女と自分の見ている世界は違うのか。クロウは柱についた線なんて気付きもしなかったし、この部屋の本来の持ち主に一切興味もなかった。休める場所があって幸いだとただそれだけ。クロウだけではなく、リガルや他の魔導師も似たような事を言うだろう。なのに彼女はいつだって彼女のままで、いなくなってしまった人々にも敬意を払い、惜しみのない愛情を注ぐ。クロウには決して真似出来ない生き方を尊敬もしているが、魔導師としてやっていくうちにいつか失くしてしまうのではないかと気掛かりでもあった。その時、一番傷つくのは他ならない彼女自身だろうから。

「今回はどの程度切ります?」
「手入れめんどうだしばっさりいっていいよ。よろしく」

 彼女がフードに手をかけると、癖のない長い髪が風に舞う。

「あ、窓閉めるよ」

 立ち上がり、「ネジ外れそうだなー」と呟きながら窓を閉める。見慣れない後ろ姿は、クロウが知らない一人の女性だった。

「……髪伸びましたね」

 わざわざ繰り返す事でもない、馬鹿げた発言だった。しかし彼女は気にした素振りもなくからりと笑う。

「でしょう。もー首が痒かった」
「そのまま伸ばそうとは考えなかったのですか?」
「自分の髪いじってる暇があるならエルのカバー新しくする」

 じゃあ改めてよろしく、と外套を脱いで座り直す。承諾し、伸びた髪に鋏を入れた。
 ジョキ、ジョキ、と髪を切る音が夕暮れ時に響く。他の魔導師達も既に休んでいるのか、物音もなく静かだった。

「んん……寝そう」
「寝てもかまいませんよ」
「いや、頼んだのこっちなのに悪いよ。クロウ、なんか面白い話して」
「そういったのが得意ではないのはご存知でしょうに」
「そ? クロウの話好きだけど」
「あなたが変わっているんです」
「師匠にしたらクロウも十分変わってる子どもだったと思うよ」

 一瞬、手が止まる。互いに避けてきた師匠の話を、前触れもなくされるとは思いもしなかった。戦いとは程遠い悠々と流れる時間の中で、彼女の気も緩んでいたのかもしれない。悲愴感はまるでなく、聞き逃してしまいかねないほど落ち着いた口調だった。

「リガル見ててさ、たまに考える時ない? 私たち育てるの師匠めちゃくちゃ苦労したんだろうなって」
「それはまあ……否定できませんね」
「ね。私リガルより手のかかる弟子だった自信がある……」

 彼女は魔導師としての実力の話をしているのではない。人間性の問題だ。あの頃の彼女はぼんやりとしていて、すぐに迷子になり、ようやく探し当てたかと思うと誰もいない場所で独り言を言っていたり話を聞けばどうにも噛み合わない会話を繰り広げたりと大変だったのである。しばらくして魔導書や精霊と同調しやすい体質なのが判明し、彼女の不可思議な行動に納得はいったが、人間との区別がはっきりつくようになるまで数年かかっていた。本人には苦い思い出らしい。

「飲み込み早いし豪胆だしリガルはいい魔導師になるだろうなあ」
「後半を女神相手にまで発揮するのはいかがなものかと思いますが」
「そこはほら、手綱を握るのが隊長と副隊長の役目だから」
「違いないですね」

 ジャキン。切り落とされた髪が、床に落ちていく。いきなり短くする勇気はなかったため、徐々に調整していっているというのに、大量に散らばる髪が木目を隠している。女神救出の旅を始めてから、月日が経っている事を示していた。一度終わりを迎えたこの世界で、彼女は息をしてクロウの目の前に座っている。至極当たり前の事で胸がいっぱいになったのは、彼女の言う通りここが「おばあちゃんの家」だからなのか。

「……師匠に縁のある人と昔話したりしたせいかな、最近になってやっと拾えることもあるんだよね。修行は辛かったし逃げ出したくなる時もあったけど、あれは愛なしにはできなかったよなあって」

 埃っぽい部屋で過去を切り落としながら、古びたページを一枚、二枚と二人でめくる。

「師匠はさ、私たちに生きていてほしかったんだよ。だって私も、リガルに生き抜いてほしいもの。生きて、生きて、難しいことかもしれないけど、笑っていてほしい」

 背中を向けている彼女の表情は見えない。けれど容易に思い描けた。穏やかに笑っているのだろう、リガルにそうであってほしいと願う通りに。

「あなたはリガルが可愛くて仕方がないのですね」
「弟属性に飢えてたんだよ、きっと」
「弟属性、ですか」
「クロウは可愛くないし」
「私に求める時点で間違っています。はい、終わりましたよ」
「おおー、軽い!」

 右手で髪を触るその指は骨ばっていて、露わになった肩は記憶にあった姿よりも細い事に気付く。魔導書がなければ、あっという間に天魔に食い殺されそうだ。自分達の生を望んでくれたという師は、今の彼女を見て何を言うのだろうか。よかったなと無条件に喜んでくれるのだろうか。考えてみても、答えは出せない。彼が何を思って生きていたかなどクロウには想像も出来なかった。師の事は、何一つとして分からないままである。彼女とは、違って。

 顔を曇らせるクロウとは対照的に、彼女は本の中で眠るエルに楽しげに話しかけている。

「次は前髪も切りましょう」

 明日には消えてしまうかもしれない貴重な時間を壊すべきではないと、クロウは努めて普段通りに接した。

 コトン。鋏を机の上に置き、代わりに手鏡を手に取る。待ちきれないといった様子の彼女に渡せば、「おおお……!」と声にならない声を上げて、――心底嬉しそうに顔を綻ばせた。その笑みはセピア色の写真を色鮮やかに塗りかえていくかのように、或いは枯れた地で花を咲かせるかのように力強く、眩いまでの大きな光を放っていた。

「すっごい! あのぼっさぼさの髪がまとまってる!! やったー、リガルに自慢しよう!!」

 クロウですら見た事もない高いテンションで喋り切ったかと思うと、足早で部屋を出て行く。止める暇もなかった。

「ごめん、忘れてたよ」

 突如振り返り、何事かと首を傾げるクロウに先程とはまた違う無邪気な笑顔を向ける。

「ありがとね、クロウ!」

 ――――なくしてしまうことを恐れていたのは、多分、クロウの方だ。彼女を気遣うフリをして、本当は自分が見たくなかっただけなのだと思う。でも、もしかしたら。否応なしに全てが変わっていく中で変わらないものだってあるのかもしれない。信じてみてもいいのだろうか、何も出来なかった無力な自分が夢を描く事は許されるだろうか。目を瞑った先にいた師匠の表情こそ窺えなかったけれど、下手くそな鼻歌が重なった気がした。

 報復は忘れていなかった彼女に鏡では見えづらい部分を三つ編みにされ、リガルに指を差されて笑われたのは言うまでもない。

色褪せたアルバムに挟んだ栞