連日連夜、チョコレートの甘い匂いが暁の協会本部を満たす。
 ポラリス隊の副隊長が日頃お世話になっているので感謝の気持ちですと花束を渡して歩き、もらった人々が手作りのチョコレートを返しているためである。何故彼女が突如そんなことを始めたのか、何故お返しがチョコレートなのか詳細を知る者はいない。たぶんみんな、理由はなんでもよかったのだろう。暗く憂鬱な日常に、僅かでも光が差すのなら。

 例に漏れずクロウも、アドニアに書いてもらったレシピを参考に悪戦苦闘している最中だった。彼のメモには至極簡単そうなことしか記されていないのに、これがなかなか難しい。まず調理器具を揃えるのに時間がかかったし、湯を沸騰させなんとかチョコレートを溶かし終わった後にはあちこちにチョコレートが飛び散っていた。片付けるのが大変そうだと思いながらも、工程はまだ残っている。次は型に流し込まなくては……天魔を倒す方がよっぽど楽だなと考えた時、あの時の彼女もこんな気持ちだったのかと振り返る。

 その日、アドニアの厳しい訓練を終えたクロウは自室で本を読んでいた。お前ならそろそろ読めるだろうとアドニアが譲ってくれたものだ。師が自分の成長を認めてくれたのだと誇らしく、魔術について詳しく書かれた内容も心惹かれるものだったため、一ページ一ページじっくりと読み進めていく。が、平穏は長くは続かなかった。

「くーろーうーー!!」

 幼馴染の少女がノックもなしにドアを開けて入ってきたかと思うと、勢いよくまくし立てる。

「クロウ今暇? 暇だよね? あげる!」

 ずいっと差し出された包みを反射的に受け取る。結ばれた青色のリボンが普段の彼女のイメージとは違うことを不思議には思ったが、それどころではなかった。

「ねえ、まったく暇じゃないよ。それとノックはして……」
「ごめんごめん。次から気をつけるー」
「前も同じこと言ってた!」
「そうだっけ?」

 こてん、と首を傾げる少女に、悪気は一切感じられない。この調子ではまたやるなと嫌な確信を持ってしまう。とはいえ彼女がこんな真似をするのは自分相手にのみだとクロウも分かっているので、諦めて栞を挟み、机に置くことにした。別に本は逃げやしない。

「で、どうかしたの?」
「開けて開けてー」 

 言われた通りに、リボンを解く。中から出てきたのは、歪な形をした茶色い何かだった。

「これは……?」
「師匠に教えてもらってスイートポテト作ってみた!」

 スイートポテト。なるほど確かにそれらしい匂いがしている。しかしクロウが知るスイートポテトはこんなにも焦げた匂いはしなかったはずで、色ももっと食欲を誘うような鮮やかな黄色だった。あげる、ということはつまり、クロウに食べてほしいらしい。……これを? クロウが二の足を踏んだことに彼女も気づいたのか、やや目を泳がせながら弁解する。

「ちょ、ちょっと焦がしちゃったけどおいしいよ」
「ちょっと、かな……?」
「ちょっとだよ! クロウのばか! ちゃんと味見したんだから!」

 なら大丈夫か、と安堵した直後に、いや彼女は大体なんでも美味しいと喜ぶなと再び不安が襲う。

「……師匠はクロウなら大丈夫だって言ってくれたのに」

 滅多に聞くことのない彼女の沈んだ声が耳に届き、まさか泣いてしまうのではないかとクロウは内心慌てる。泣かせたいわけではなかった、ただ、驚いてしまっただけなのだ。どうしよう、どうしたらいい? うろたえるクロウを尻目に、先に立ち直った彼女がスイートポテトを指で掴む。

「我儘言ってけっこういいお砂糖使ったんだから食べて!!」

 ちょ、とクロウが止めるよりも早く、クロウの口にスイートポテトが突っ込まれる。吐き出すわけにもいかず、ばりばりと音を立てて噛み砕く。がどうやら焼きすぎていたのは表面のみのようで、後はふんわりと柔らかく、さつまいもと砂糖の優しい甘みが口の中を満たした。いい砂糖を使った、というのも本当なのだろう。

「おいしい、です」
「でしょ。見た目で決め付けるのはよくないよ!」

 彼女の言うことは尤もである。謝ったクロウに彼女は「わかればよろしい」と満足げに笑った。
 青いリボンに誕生日おめでとうと刺繍がされていたことに気がついたのは、しばらく経ってからのことだった。

 結局上手くは出来なかったチョコレートをどうするか悩みに悩んで、三回目の呼び出しの際におそるおそる渡した。彼女のために作ったものを自分で食べるのも捨てるのも違うと思ったからだ。味に問題がなければ大丈夫だと信じるしかない。味はそう悪くない、はずだ。アドニアのレシピに沿ったものしか入れていないし、クロウも味見はした。……予想より苦かった気はするが。

「クロウからチョコレートもらえるとは思わなかったなあ。食べていい?」
「えっこの場で開けるのですか」
「だめなの? クロウも私があげたお菓子食べてたじゃん」
「あれはあなたが私の口に押し込んできたんですよ!」
「そうだっけ?」

 首を傾げる仕草が完全に一致していて、肩の力が抜ける。泣かせてしまうかもしれないと胸を刺した罪悪感は未だ消えていないというのに、当の本人はすっかり忘れているらしい。彼女はそういう人だ。あの頃の心配も、杞憂に過ぎなかったのだと今なら思う。

「まあいいや、いただきます」

 しゅるりとリボンを解き、形の悪いチョコレートを手に取る。たったそれだけの事から目が逸らせず、彼女はどんな感想を抱くのかと緊張で胃が痛くなってきた。

「……すみません」
「まーた謝ってる。さっきはこれでいいって言っちゃったけど、私はこれがいいよ。クロウが私のためにって作ってくれたんだから」

 クロウは彼女が作ってくれた菓子に酷い態度をとったというのに、彼女はありのままを受け入れてくれている。その心の広さは見習うべきなのかもしれない。

「ん、おいしい!」

 みんな、この笑顔が見たくてチョコレートを作ったのだろうなあ、と甘い匂いが漂う馬車の中でふたり過ごした。

マシュマロミルクココア