この世の全てを破壊せんとする、凶悪な感情の波が場を支配する。迅雷天嗣。『ソレ』が何かを理解した瞬間、誰かの息を呑む音が聞こえた。もしかしたら自分のものだったのかもしれない、そんな事を気にしている余裕はどこにもなかった。

 神の祝福を受けし魔の者、天魔。神が地上を荒廃させるために送り出した化物に、何百、何千、何万もの人間が殺されてきた。禁忌の術を用いて戦う力を得た魔導師も例外ではなく、クロウも何人の同志を弔ってきたのかもう思い出せない。仲間の血を浴び、遺体から紋章を回収する作業を繰り返し、本部が壊滅しても尚戦う事を選んだのは、この世界は戦う術を持たない人間の方が遥かに多いと知っていたからである。魔導師が戦う事を止めたら、あっという間に世界は滅んでしまう。勝算は低くても、諦めるわけにはいかなかった。己の命が尽き果てるまで、魔導師であり続けなければならない。そう、思っていたのに。

「あの幻獣は……あれは……」

 足が竦む。喉がからからに渇く。目がちかちかしてまともに開けていられない。脳が、心が、目の前の現実を受け入れる事を拒否する。

 その可能性を、ほんの少しも思い浮かばなかったわけではなかった。人間だけが進化の対象を外れるなんて、都合のいい話だ。にも関わらず他にも考える事は山ほどあると自分に言い訳して、頭の隅に追いやっていた。実際に遭遇する事はないだろうと高を括っていたのである。甘かった、何もかもが。

「魔導書を構えろ! お前らは魔導師なんだ!」

 雷の聖堂全体に響き渡るのではないかというほど張り上げられたマクレガーの声が、揺らいでいた空気を一刀両断する。そうだ、自分は魔導師なのだ。ここで戦わなくてどうする。不安定な感情をクロウがぐっと抑え込んだ時、視界の端に幼馴染の副隊長の姿が見えた。……真っ直ぐに前を見る幼馴染の右手には、しっかりとラジエルの書が握られていた。クロウと同じように震えていたのかもしれないけれど、迷いの海に沈んでいたのかもしれないけれど、戦う意思は捨てずに覚悟を決めていたのが嫌でも伝わってくる。

 このひとは、逃げなかったのだ。無慈悲な運命からも。

 マクレガーや女神達のおかげで死者を出す事なく人型の幻獣を討伐し終え、森で野営の準備をする魔導師達の間に会話はほとんどない。普段は騒がしいリガルも、もくもくと手だけを動かしている。言葉はなくとも、互いの心情を察せない者はいなかっただろう。

 「本当にこれで正しかったのか」「いやあれは仕方のない事だった」「仕方のない事、で済ませて次も殺すのか」――それは赦される事なのか?

 天幕の中で横になり、目を瞑ると数時間前の光景がはっきりと浮かぶ。誰かの息を呑む音、マクレガーの叫び声、前を見ていた幼馴染の横顔が、何度も何度も再生されていく。駄目だ、このままでは暗闇に引きずりこまれてしまう。静かに息をして、気持ちを整えて、切り離していかなくては……。大丈夫、ずっとそうやって生きてきたのだから。

 しばらくすると、隣から寝息が聞こえ始める。どうやら幼馴染は先に寝たらしい。クロウの身体も、疲労からくる眠気を訴えている。本当ならそのまま寝るべきだった。しかしクロウは上半身を起こし、眠る幼馴染の顔を盗み見る。悪夢のような出来事は全部嘘だったのではないかと思ってしまう、安らかな寝顔がそこにはあった。

 立て直すのが早かったのは、恐らくマクレガー、幼馴染、クロウ、リガル、他の魔導師の順だった。マクレガーが瞬時に切り替え、中級魔導師の二人も彼に続いたからこそ、皆立ち向かえたのである。そう考えればクロウが躊躇った時間は僅かであったし、人としては至極真っ当な反応だったのかもしれない。だが、幼馴染も似た立場であるにも関わらず「また」遅れを取った事がクロウの中にわだかまりを残していた。

 大切な人を守れる、強い自分でいたかった。そのための努力も怠らなかったと自負している。でも今の自分は、昔の自分がなりたかった姿なのだろうか。憧れとは随分遠い位置に来てしまった気がする。悔やんだところで、罪を犯す前の自分には二度と戻れない。受け止めて進んでいくしか道はない。

 吐き出せなかった想いを抱えて、まどろみに身を委ねる。夢の中で幼い子供が泣いている気がした。

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