「暁の協会本部へ行こう」
サタナエルが宣言したその日の夜は寝付くのに時間がかかった。明日も早いのだから寝なければならない、と考えれば考えるほど目が冴え、羊を百匹数えてみたりもしたが眠気は一向に訪れない。昔先輩に教えてもらった快眠のツボを押してみたりもしたものの、位置が違うのか逆効果で終わった。何度目かの寝返りを打ったあなたは、時刻を確認して見張りはグリーゼ隊の魔導師だと思案する。リガルであれば止めるつもりだったが、彼は放っておいてくれるだろうと寝床を抜け出す。このまま悶々としていたって眠れないことを、あなたは知っていたのだ。
予想通り、グリーゼ隊の二級魔導師はあなたを一瞥して「お疲れ様です」と声をかけてくれたあとはそっと視線を外した。感謝しつつ、森の茂みに入る。彼が薄情なのではない。あなたが彼の立場であっても、違う隊の副隊長に深く尋ねはしなかった。リガルなら「あんま遠くまで行くなよ。は? 眠れない? じゃあ俺と見張り変わってくれよな。いやなら休めって」とでも付け加えられているだろうか。うん言いそう、とあなたは口角を上げる。実際に聞いてみたかった気もしたが、彼に会いたくはなかった。心配させるだけなのが目に見えていたし、自分の部下に情けない姿を晒すのは避けたかった。くだらないプライドだ。
あなたは木に寄りかかって空を見上げる。しかし星を数える心境でもなかったので、心を落ち着かせるべく目を瞑る。遠くで川のせせらぎが聞こえた。少しだけ、あと少しだけこうしていよう。こんな気持ちのままでは、足を引っ張るだけだ。
かさり。
草を踏む音が耳に届き、魔導書を手に取って戦闘態勢に入る。が、音の正体に気づいたあなたはすぐに気を緩めた。
「クロウ」
彼の名を呼ぶあなたは、皿を割ったことが親に露見して怯える子どものようだった。叶うならば、逃げ出したい。けれどそうしてはいけないのも分かっている。悪いのは自分だ。
「ごめんね。起こしちゃったのかな」
「いえ、始めから起きていました」
「……そう」
皿を割ってしまっても「ごめんなさい」の一言で許された幼少期ならば、あなたは「狸寝入りが上手いよね」と拗ねていたかもしれない。だが今のあなたは割った皿を補充する必要があることも、たった一枚のそれが隊の士気を下げかねないことも知っていた。眠れなかったの、なんて無意味な質問をする気には、到底なれなかった。
「風邪を引きますよ」
渡された外套を受け取る。置いてきていたのに、気を遣って持ってきてくれたらしい。羽織ると、クロウが持っていたためなのかほんのりと暖かかった。でもなにか違和感が、と考えていたら、隣に並んだクロウがじっとあなたを見下ろしていることに気付く。
「どうしたの?」
穴が空いてしまうのではないかというほど見られたのでは、流石に聞かないわけにもいかなかった。
「傷跡が残らなかったのならよかったです」
傷跡? と考え込み、昼間のことを言いたいのだと思い当たる。
「うん、ケネスさんの魔神が治してくれたからね」
「あなた今、傷跡ってなんのことかなと思ったでしょう」
「そ、そんなことはないよ?」
「まったくあなたは……ケネス様がいらっしゃらなかったらどうなっていたか」
切々と訴える声は、無遠慮に触れれば瞬く間に壊れてしまいそうな儚さがあった。ああそうか、自分は彼の目の前で死にそうになったのだ、とあなたは今更実感する。間に合わなかった後悔に苛まれている彼の前で。もし、天魔の牙が自分ではなくクロウの首を切り裂いていたら……ほんの一瞬の想像で、先ほどまではあった温もりが急激に失われていく。ドッドッと激しく脈打つ心臓を抑えるように、胸元の布をきつく握りしめた。
「……ごめん」
「はい。次回がないようにお願いします」
「気をつけます……」
反論の余地もない、完全な油断だった。防げた負傷だ。ここにアドニアがいたなら、説教どころでは済んでいない。基礎を忘れているようだな、と座ることすら許可が下りず延々とこれまでの教えを復唱する羽目になっているだろう。やっと解放されたかと思えば実戦訓練で容赦なく扱かれるに違いない。別の意味で背筋が冷え、背中に汗が伝った。ケネスも、自分たちと同様に指導を受けたのだろうか。
「ねえそういえばさ、クロウ」
「なんです?」
「気を失う前に「彼に」って聞こえた気がするんだけど、あれはなんだったのかな?」
あなたはにっこりと笑って、ずっと引っかかっていたことを尋ねる。
「な、なんのことでしょうか。聞き間違いではないですか?」
「クロウはすごーく顔に出るって自覚した方がいいと思うな」
まずい、聞こえていたのか。という彼の心の声がありありと見て取れる。
「ケネス様は目が良くないので……」
「ふうん、つまり目がよくない人には男に見えるくらい私が真っ平らだと。クロウはそう言いたいんだね」
「ま、……っ、女性がそういうことを口にするのは」
あなたが指した箇所を察したらしいクロウは、暗がりでも目立つほどに頬を赤く染めあげる。明るいところで見たかった、と残念に思いながらも、折角だから目に焼き付けておこうとあなたはクロウをまじまじと見た。長く一緒にいすぎるせいか今になって特別な感想が浮かぶといったわけでもなく、相変わらず整った顔だと月並みなことを思う。ただこうしていると、朝がくれば壊滅した本部を直視しなくてはならない不安が薄れていく気がした。するとクロウは手で顔を隠してしまう。
「からかうのは止めてください」
「んーん。でも訂正してくれてもよかったんじゃないかなあって」
「それは……すみません。否定できる状況ではなくて……」
「いいよいいよ、エルは可愛いって言ってくれるもの」
「そうですよ、主様は可愛らしい女性です」
魔導書から飛び出したエルに、ぎゅうぎゅうと抱きしめられる。鋭い眼差しでクロウを睨む彼女は、あなたを守る騎士かのようだった。
「ですから主様、見る目のない男の外套など脱いでください!」
「あ、これクロウのだったんだ。ちょっと大きい感じはしてたんだけど」
なるほどだから、とあなたは外套を嗅ぐ。
「うん、クロウの匂いがする」
同じものを食べ、飲み、ほとんど変わりのない生活をしているのに不思議なものだ。性別の違いもあるのだろうか。慣れ親しんでいた匂いはなんだかほっとして、唐突に眠気が襲ってきた。一枚の布に過ぎないはずだが、上質な羽毛布団に包まれている気分になる。貸してくれたのはクロウだし返すのは天幕に戻ってからでも許してくれるかな、とあなたが心地よさそうにしていると「あ、え、はっ?」と彼には珍しい素っ頓狂な声が響いた。
「え、ごめん返したほうがいい?」
「着てくれていて構いませんが……その、いえ、もういいです」
「言いたいことは言ったほうがすっきりするよ?」
「折を見て……言います」
「そ? じゃあ待ってる。そろそろ戻ろうか。話し相手になってくれてありがとう」
「こちらこそ」
魔導師たちが生きた証は消え去り、瓦礫しか残らなかったあの場所を思い出すと足が竦みそうになる。何度も夢に見ては飛び起き、ああ夢でよかったと救われるのと同時にもっと非情なのが現実だと突きつけられた。クロウも魘され続けていることを、あなたは知っている。この世界の神に慈悲はない。けれどクロウは、そんなことは承知の上であなたを迎えに来てくれた。その優しさを、大事にしたいと思う。
彼の隣で見上げた夜空は、涙が出そうなまでに美しかった。