黒い太陽を背に、喇叭音が響き渡る。人類の存続を懸けた天界大戦に敗北した後、首の皮一枚で繋がっていた世界は今度こそ神の手によって終焉を迎え、再び始まった。人類にとって最悪の形で。

 本部の様子がおかしい。調査に行ってもらえないか。

 久しぶりのベッドだと休みを満喫していたら支部長室に呼び出され、ひどく深刻そうに告げられる。定期便が途絶えたのだという。本部が、どうしたというのだ。副隊長である男も隣に並ぶ隊長も態度には出さずに敬礼し、ざわつく心を静めて応じる。しかし支部長の顔は依然として険しく、「嫌な予感がする」と聞き取れるか聞き取れないか程度の声で呟いた。この人の「嫌な予感」は外れた試しがない。ぴり、と肌に刺さる緊迫感の中、隊員にも伝達し迅速に準備を進める。直ぐに動けるのは、自分達の隊だけだった。

 全魔導師の半数が所属する本部とは異なり、人手不足な支部は1級魔導師でも隊を任される。この隊は隊長副隊長共に1級魔導師で、後は2級と3級で編成されていた。取り立てて珍しくもない隊編成だ。「調査」で済まなかった場合役に立てるだろうか、という懸念もあったが、今いるのがお前たちの隊でよかったと零した支部長の言葉を活力にし旅立つ。仮に最短ルートを通ったとしても、本部への道のりは長い。

 何事もなかったですよ。支部長は心配性ですね。そう報告出来たらいいと、誰もが願っていた。だが、人一倍お喋りな男ですら口にはしなかった。数々の修羅場をくぐってきた准特級魔導師の一言の重みを既に知っていたからだ。陰鬱な空気を振り切り、努めて普段通りに振舞いつつ馬を走らせていた時、異常なスピードを出してこちらに向かってくる魔導師が見えた。ただならぬ様子に慌てて馬車を止め、話を聞き出す。

 魔導師――クロウは要点を絞って語った。自分は本部の魔導師で、無数の天魔に襲われた本部は女神と全魔導師で対応し現在籠城戦を行っている事、押し切るために魔導師長の命令で援軍を呼びに行こうとしていた事。支離滅裂になってもおかしくない内容を、彼は焦りも見せずに順立てて説明する。相応の階級に違いない、と腕章を確認すれば、中級魔導師のものだった。本部は中級魔導師から部隊を持つ事を思い出し、隊長だなと当たりをつける。でなければ、不可能だと思えた。暗がりでも隠し切れないほど彼の顔色は悪かったから。

 耳を疑いたくなる内容を各々で受け止めながら眠りにつき、夜が明ける。一刻も早く本部へ戻りたかっただろうに、休息を提案したのはクロウの方からだった。自分達を気遣ってもあるだろうが、自身の体調が万全ではない事、馬が限界な事も正しく把握していたらしい。彼の冷静さは、感嘆に値するものだった。

 心構えも新たに本部へ向かう道中、クロウと自分達の隊との間に会話は殆どない。事態が事態だったし、元より必要以上には喋らない性格にも思える。どこか神経質そうな雰囲気を放つ男だった。所属する人数が少ないためもあって、自然と横同士の繋がりが強くなっている支部では上手く馴染めないかもしれない。1級魔導師の自分よりも遥かに年下な彼が中級魔導師なのだから、万が一にも支部に移るような事はないのだろうが。

 それとも、親しい者達の中では年相応の顔も見せるのだろうか。確かめるには時間が足りず、彼と自分達との距離は離れているままだった。けれど、考えていた事は一致していたはずだ。一秒でも、早く。

 暁の協会本部は、魔導師達の帰る場所である。身寄りがない者も多く、家の意味もあったが、志半ばで散ったとしても彼らが意思を継いでくれるというよすがでもあった。身命を賭して天魔と戦う魔導師にも、食料が不足する中で懸命に生きる村人にも、最後の砦。風でたなびく旗は、誇らしくも思えたものだ。なのに。駆け寄っても、なにもみえない。

「……っ、」

 は、うそだろ、どうして……。神や天使が聞けば嘲笑うだろう弱々しい声が、あちこちで漏れる。かわいそうに、場数を踏んでいない3級魔導師の青年は胃の中のものをぶちまけていた。大丈夫か。気遣ってやりたいのに、声は出ない。目の前に広がる光景を視界に捉えるのが精一杯で身動き一つ取れなかった。

 崩れ落ちた古城、砕け散った講堂のステンドグラス、横に倒れ赤く染まった旗、どこのものかも定かではない大量の瓦礫、ぼろぼろになって転がった魔導書――それらを覆い尽くすほどの魔導師の、仲間の、人間の屍。

 上から落とされたのか、不自然に折り重なる体は腕や足が拉げていた。折れた柱に体が貫かれている者もいた。本棚の下敷きになっている者もいた。背中一面にガラスが突き刺さった者もいた。下半身が見つからない者も、いた。地獄と呼ぶ事すら生温い底なしの闇が、見渡す限りをべったりと塗り潰している。「遺体」と言えるのはまだ良い方で、木には人間の器官がいくつもぶら下がっていた。生存者がいるとは、到底信じられない。

 酒に呑まれて頭がぐわんぐわんと揺れている時にも似た、現実味の薄れた膜がかかる。指の先が段々と冷えていく。呼吸が乱れどうやって息をしていたのかも分からない。僅かでも気を緩めれば、意識が後ろに引っ張られてしまいそうだった。もういっそ気を失った方が楽なのではないか……瞼を落とそうとした時、悲鳴に近い絶叫が鼓膜を震わせる。

「師匠っ!!!!!」

 誰の声なのか本気で分からなかった。聞き覚えのない青年のものだ。続いて、彼の部隊の者達だろう名前が次々と上がる。何人目かになって、漸く声の主がクロウであった事に気がつく。そうだ、彼は本部所属の魔導師だ。誰一人として動き出せない中、彼は自分達に簡潔な指示を飛ばした後に奥へ奥へと進んでいった。常に落ち着いていた青年が、なりふり構わずに叫び、自身の手も傷だらけにしながら瓦礫を退け、必死に現実に抗おうとしている。自分も、為すべき事をしなくては。みっともなく笑う膝にどうにか力を入れ、「大丈夫か」と3級魔導師の青年に声をかけてからクロウとは逆の方向へ歩いた。

 仲間の顔を踏んだ。仲間の足を踏んだ。仲間の手を踏んだ。仲間の目を、耳を、心臓を、靴の下で感じた。血で何度も滑りそうになった。避けるのは困難だった。正直に白状すると、何を踏んだのかさえ本当は分からなかった。ふわふわのカーペットの上を歩いているような、奇妙な感覚だった。

 極力感情を切り離し、知っている数少ない名前を呼びながら紋章を拾い集めていく。死亡した魔導師の紋章を生存している魔導師が回収するのが通例だが、これほどの数を腕に抱えたのは生まれて初めてだ。「生きている者はいないか! 返事をしてくれ!」喉が枯れるまで繰り返す。繰り返す。だれか、だれかいないのか。ひとりでもいい、だれか――――

「――――!!」

 誰もが足を止め、クロウの方を見る。先程までとは違う、涙交じりの、希望に満ちた声だったからだ。暗闇の中の、唯一の光。瓦礫の下から救助された魔導師は、怪我を負ってはいるものの命に別状はなさそうだった。よかった、生きていてくれた。目頭が熱くなり、部下の前で泣くわけにもいかないとぐっと堪える。周囲からも、肩の荷が下りたような吐息が零れ始めた。数秒後には、歓声が上がるだろう。だが安心したのも束の間で、あれはだめだな、と絶望がじわじわと胸を巣食っていく。助けられた魔導師の瞳は真っ暗で、なにも映してはいない。

 知っている、人が壊れた時、「ああ」なるのだ。現実と夢の境が曖昧になり、誰の声も届かず、心臓は動いているのに心が生きてはいない。目の前にいるのに、触れられない。おちておちて、堕ち続けるしかなかった。戦線に復帰出来なかった魔導師もいる。あなたが生きていてくれて嬉しい。その一言は、どれほどあの人を追い詰めるだろうか。

 どうして、こんな事になった? 自分達は何を間違った? 大切な人を守りたいと、魔導師になっただけなのに。対価まで支払って、末路がこれなのか。おれたちは、一体なんのために。

「クロウ」

 ちいさな、小さな声だった。本当に自分の耳に届いていたのか、自信もない。けれど、何もなくなったこの場所でクロウを呼ぶ声を、確かに聞いた。

 助け出された魔導師はクロウの手を取り、よろよろと起き上がる。かろうじて原形を留めていた外套で、その人が中級魔導師以上の階級である事が遠目からでも分かった。がつん、と後頭部を殴られたような衝撃が襲う。外野で見ているだけだった自分は勝手に諦めてしまったのに、あのひとも、クロウも。屍の上にしっかりと立っていた。

 彼らを弔いましょう。
 命令とも呼べない、懇願にも近いクロウの一言に迷わず了承する。女神を奪還する、とクロウは言った。彼女達はまだ生きている、しかし今の戦力では適わない。生き残った魔導師達で手を取り合うために支部を目指すと。初めて出会った時と全く同じ顔をして彼は説明した。合理的に進むならば、こんな事をしている余裕もないのかもしれない。彼らがこのまま出発する決断を下していたとしても、誰一人として責める資格は持たない。戦場に仲間を置き去りにしてきた経験がない人間など、居ないから。だが、禍根は残った。凄惨な死を遂げた仲間の遺体を放棄する罪悪感、人としての情を失くしたクロウ達への不信感。火のついた導火線はやがて爆発する日がくるかもしれなかった。クロウがそこまで考えていたのかは分からないが、彼の人間らしい情には好感を持った。

 「人間であったモノ」を一カ所に集め、山を築いていく。本部の敷地は広大な上に死亡者が生存者の人数を大幅に上回っていたため、魔神の手を借りても作業には時間がかかった。最も多く往復していたのは、顔を真っ青にし酸っぱい臭いを漂わせた――実際は死臭に紛れ臭いはしなかったが――3級魔導師の男だった。彼とすれ違った際、背中を軽く叩いてやる。振り返った彼の顔は涙でぐしゃぐしゃで、とても見られたものではなかった。

 ぶっさいくだなあ、お前。
 ひっどいすよ副隊長!

 目だけで会話を交わす。つい数日前までは当たり前のように存在していた日常を遠く感じ、胸を掻きむしりたくなってくる。だが、感傷に浸っているわけにもいかない。生きている者が弔ってやらなければ、彼らの魂が彷徨ってしまう。光の鎖を、かけられてしまう。こんな事で罪滅ぼしになるとは思えない。彼らが安らかに眠れるとも、思えない。しかし自分達の義務だ。

 途中で休憩も挟み、一体何時間経っただろうか。集めてはい終わり、ともいかず、各々が炎魔法を使用する魔神を喚び出す。とはいえ、男が喚び出せたのはアムドゥシアス一柱のみ。所持していない隊員もいた。物理攻撃に偏っている者や他の属性を得意とする者もおり、特定の魔法を要求されては無理もない。クロウと助け出された魔導師は難なく数柱召喚し、後者に至っては滅多に見る機会もないクリムゾンフレアで一際大きな炎を三回に渡って放つ。格差を目の当たりにし、すみません、と喉まで出かかってしまった謝罪は寸前のところで飲み込んだ。援軍として訪れた部隊の副隊長としては、謝る方が正しかったかもしれない。喚び出せなかった部下が劣っている風に言うのはどうしても嫌だった。それに、謝っても突然魔力が上がるわけではない。………間に合わなかった事実が変わる事も、ないのだ。

 燃える、燃える、燃える。

 彼らの届かなかった後悔を、苦痛を、絶望を拾い上げるには、本部と支部の関係性が希薄すぎる。自分はどうやって彼らを悼めばいい。名前を知らない、顔も知らない、献花すら用意してやれない。彼らの軌跡にも関わっていない、でも他人と呼ぶには近すぎる自分が一体何を言える? 何を言えばいい? 

 この世界に「もしも」はない。
 数ヶ月の研修期間を終え、最初に配属された隊の隊長の口癖だった。あの時ああしていたらと悔やむ日もあるだろう。自分なら助けられたと魘される夜だってあるかもな。だが、この世界にもしもはない。過去に介入するのは不可能だ。だから、生きろ。全てを背負って、二度と同じ事を繰り返さないためにも生きろ。

 あの人の言葉は、まっさらな心に強く響いた。尊敬する大好きな隊長だった。

 起きてしまった出来事を変えられる力があるのならば、部下を庇って命を落とした隊長を助けるだろう。一緒の隊になれたらいいなと笑っていた同期の男に、油断だけはするなと声をかけてやるだろう。判断を間違い、数名の死者を出した己を殴る。もしも後一日到着が早ければ、あの時休んでいなければ。非力な自分達ではなく精鋭の部隊であったならば、なんて。いくら考えても取り戻せるものは一つもなかった。この世界に、もしもはない。

 ごうごうと燃え盛る炎をぼんやりと眺めながら、前方にいる中級魔導師達の背中を見る。表情を窺い知る事は出来ない。けれど泣いてはいないのだろうな、と思った。階級が下の自分達が傍にいる限り、あの人達は泣かない。そういう人達だ、と言い切れるほど人となりを知っているわけでもなく、もしかしたら麻痺しているだけかもしれなかったが、何故だか確信していた。

 燃やし始めて暫く経った頃、一枚の紋章が風に乗って運ばれ、やがて地面に落ちる。どこの隊の紋章なのかは、支部所属である自分には分からない。そっと拾ったクロウが大切そうに額に当て、祈りを捧げていたのを見てやっと察する事が出来た。

 彼らは生きていた。そして今、死んだ。中級魔導師二人の人生に、癒えない傷跡を焼きつけて。分かり切っていたはずの現実がまるで初めて知る感情かのようにじわりと胸に広がり、炎で熱くなった頬に一筋の涙が伝う。

 生きていた、ほんの数日前まで、本部を襲ってきた天魔と戦い、援軍が来るのを待っていた。知らない誰かなどではない、愛すべき同胞。ならば自分も祈りを捧げよう。

 彼らはどこまでもひとだった。よわくてつよい、ただのひとだった。

死神の参列者