孤児院にいた子供たちの中でも寝つきは良い方だった。布団に入ればその暖かさに引き寄せられてあっという間に眠くなってしまうのだ。クロウには度々「いいなあ」と羨ましがられ、何かコツでもあるのと尋ねられもしたがとくにないよと答えるしかできない。不服そうにされると申し訳なさも覚えたものの、本当に何もなかった。けれど、目が冴えてしまう日はある。
「クロウ、起きてる?」
羊を十匹数えた辺りで早々と諦め、二段ベッドの上に向かって話しかける。起こしてしまったら悪いので、音量は絞った。
「起きていますよ」
「よかった」
寝起きの声にしては随分とはっきりしている。繊細な彼のことだ、考え込んでしまって寝付けなかったのだろう。今夜ばかりは人のことは言えないが。
「そっちいっていい?」
「いいけど、僕が下りようか。きみは足を踏み外しそうだから」
「ううん。上に行ってみたい」
「わかった。気を付けてくださいね」
うん、と頷き、ベッドから抜け出てはしごに足をかける。孤児院では大部屋に布団を並べて雑魚寝だったため、初めての体験に胸が高鳴った。どっちでもいいですよ、と快く譲ってくれたクロウに甘えて上を選べばよかっただろうか。しかし情けないことに「落ちそうでこわい」と彼に泣きつく未来しか見えない。彼には見えないよう苦笑いを浮かべ、上りきった。
「うわー、高い。クロウはこわくないの」
「平気ですよ」
数段のはしごを上るだけで、そこは別世界だった。驚くほど天井が近い。枕元の灯りを頼りに上から見下ろす部屋はまだ何もなく、使い古された机が二つと荷物が詰め込められた鞄がぽつんと置かれているのが見える。着替えも鞄の中に入っているから、目が覚めたら整理しなければならない。
二人は今日、暁の協会が運営する孤児院から本部の宿舎に移った。
「この部屋広いねえ」
実際のところはベッドと机を置いたらもう余裕のない造りなのだが、今まで個室がなかった子供二人には十分だった。これからはクロウにだけ気を遣って生活すればいい。大所帯の中ではできなかった夜のお喋りにも遠慮はいらない。布団に潜ってひそやかに交わす内緒のやり取りも好きだったけれど。
「それに静かですね」
「ね。昨日までみんなと一緒だったからなあ」
ごろん、とクロウの横に寝転がる。それでもまだ彼との距離は空いていた。わずかな違いが、昨日までの自分達と今日の自分達の差を示している。ぎゅうぎゅうに詰める必要は、なくなったのだ。
「明日から色んなことが変わっていくのかな」
チクタク、チクタク。
壁時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。こんなことは生まれて初めてだった。大分年季の入ったあの時計は壊れていやしないだろうか。それならば納得がいく。だって、孤児院の玄関に置かれていた大人の身長ほどにもある立派な床時計はここにいていいよと歓迎してくれる優しい音色を奏でていたのに。
「変わらないと、来た意味がないですからね」
思っていたよりも近くでクロウの声が響いた。呆れている風にも取れる一言は、こちらに向けられているようでいてその実別の場所に放たれている。
クロウは、能天気と言われがちな自分なんかよりもずっと神経が細い。里親が見つかって孤児院を離れた子がいた日や、新しい子が来た日、季節の変わり目。環境に変化があると体調を崩しがちだった。なのに誰にも言い出せないまま部屋の隅でぐったりとしているので、何度も先生を呼びに行ったものだ。時計の音も、皆は寝静まった後で彼は毎晩気にしていてもおかしくない。
魔導師にならないか。
アドニア――凄いひとらしい、と知ったのは本部へ来てからだった――に持ちかけられ、彼の手を取ったのは自分達の意思だ。そこには昔絵本で読んだ魔法使いへの無邪気な憧れがあった。大人に用意された閉鎖的な空間ではなく、外へ出て自分達の居場所を作れるのだと心惹かれもした。アドニアはきっと、自分達の気持ちなんて全てお見通しだっただろう。彼が何も否定しなかったから、この人についていこうと思えた。でも、クロウと二人でなかったなら決断出来たかどうか怪しい。
「そうだね」
変わるために、二人で踏み出したのだ。ならば、心細さに枕を抱いた日も二人一緒でなくては。
いつの間にか距離が縮まっていたクロウの手に、自分の手を重ねる。枕元にある本でも読んでいたのか、布団の中で温めていた自分とは異なり指先まで冷え切ってしまっていた。少しでも体温が移るようにと、ぎゅっと握る。
「ねね、子守唄でもうたう?」
「歌いながら寝るくせに」
「しりとり!」
「どうせきみは途中で寝るよ。勝負がつかないからいやだ」
「じゃあどうすればいいのさ」
「そうやって話しててくれたらいいよ」
「ん。わかった」
きみといろんな話をしよう。夜が二人を誘うまで。
孤児院のさ、時計の音が好きだったんだよ。ほら、玄関にあったおっきいやつ。
僕もですよ。高価なものらしいですね。
そうなんだ?
天界大戦より以前につくられたのだとか。
ええーーー……流石にうそでしょ……。
じつは僕も疑ってました。
でも夢があるよね。何度も直して、時を刻み続けて今に繋がってるんだよ。
ロマンチックなことを言うね。
きらい?
いえ、好きです。
ならよかった。この部屋の時計も、なつかしく感じられる日がくるのかな。……あれ、クロウ寝ちゃった?
めずらしいね、おやすみ。